2023.9|いちばん大学に近い〈場〉
9月
代官山T-SITEで、『言語の本質』の出版を記念して開催されたトークイベント〈言語の本質を探す旅〉に行ってみた。
12個の中で、いちばん4年間の大学の学びに近い〈場〉だった。
『言語の本質』は、2023年5月に中公新書から出版されたばかりの本である。著者は、認知科学や発達心理学を専門とする今井むつみさんと、認知・真理言語学を専門とする秋田喜美さん。
トークセッションではこの2名に千葉雅也さんが加わり、千葉さんが著者のおふたりにいろいろな問いかけをするかたちで進んでいった。
名前のはなし
とても印象に残っている大学の授業がある。
それは言語学の授業で、「阻害音」と「共鳴音」という概念を学ぶ授業だった。授業といってもコロナ禍だったので、先生が作成したPDF資料なのだが。
かんたんに紹介すると「阻害音」は濁点がつけられる音で、「共鳴音」はつけられない音である。
たとえば「た」「つ」「ど」「し」は、「だ」「づ」「ど」「じ」のように濁点をつけられるので、すべての音が「阻害音」。
「りゅ」「う」は濁点をつけられいないので、すべての音が「共鳴音」である。
授業の中で、「男性の名前は阻害音が多く、女性の名前は共鳴音が多い」という話題があった。
その日の宿題は、任意で選んだある集団に属する人の名前をすべて調査し、結果を報告するというものだった。
わたしは、高校1年生のクラスTシャツを持ってきて調査を始めた。
クラTの裏には、クラスメイト全員の下の名前が書いてあった。
ひとりひとりの名前を確認して、阻害音と共鳴音の数や割合を調べた。
その結果、1年4組の男子生徒の名前で阻害音が含まれていない人はおらず、女子生徒の中で共鳴音が含まれない人もいなかった。
すごくない? というか、やばくない?
言葉の面白さを体感して鳥肌が立つと同時に、言葉って社会を作って(しまって)いるんだな、と考えさせられる出来事だった。
前置きが長くなったが、今回のトークイベント〈言語の本質を探す旅〉では、この授業の記憶が刺激されるような話がたくさんあった。
話題の中心は、オノマトペ。
まず「オノマトペは ”意味を持った言葉" ではなく、感覚や響きが大きな役割を果たす言葉である」という前提がある。
そして、「言葉の響きや感覚が、あかちゃんの言葉の習得に大きな役割を果たしているのではないか」というのが話の大筋である。(ちがったらごめんなさい)
この仮説は、一般に浸透しているソシュール言語学の理論に相反しているように思われるけれど、とても実感が伴ったことだから抵抗し難くて、なんとも私好みだった。
耳に届いた音をそのままに近い感覚で文字にする—オノマトペは私にとってとても魅力的なもので、自分の忘れたくない感覚をピンナップしてくれる言葉だな、と感じている。
私の言語学に関して、にわか中のにわかなのでこれ以上話すのは控えたい。
ぜひ『言語の本質』をお読みください。
「身体的」は「原始的」?
登壇者のどなたがお話していたのか忘れてしまったが、「オノマトペのような感覚的な言語は、原始的だと思われがちですよね」みたいな話題があった。
オノマトペのような「音象徴性」はどんな言語にも多かれ少なかれあるようだが、こういう感覚的なものへの抵抗感が強い人っていますよね、みたいなニュアンスだったと思う。
なるほどなぁ、と思った。
原始をたどれば、私たちはみんな多様だと思う。
はだかの状態になればびっくりするほど姿かたちが違っていて、うける。
洋服を着るから「最近の若者は……」とか「女性とはこういうもので」みたいなのが発生するのであって、衣装を脱いでしまえば、どんな人間もひとつに括れない気がしてくる。
頭の中についてもだいたい同じで、はだかの状態になればみんなばらばらだと思う。
「あの人気が合うな~」という人でも、まったく同じなんてことはない。
そして相手が自分とは違うのだと気づいたとき、「相手を自分のものにしてしまおう」ではなくて「相手を知って、共に生きよう」と歩み寄るのが文明なのかなぁと考えている。
言語の感覚的な性質とそれに抵抗したい人びとの話を聞きながら、人間みたいだなぁと思った。
もともとの原始的で感覚的なものから、人と人とが関わるために発達していく。抽象的な言葉が生まれたり、相手を不快にさせないような婉曲表現が生まれたり。
でも原始的な部分はあくまで「根っこ」なので、それは克服できるものではないし、する必要もないんじゃないかと思う。
むしろ「根っこ」の存在に気づかずに、言語の感覚的な性質を忘れて生きていると、無自覚のうちに誰かを傷つけてしまったりするのかも。
なんだかずいぶん飛躍した話のようだが、こういう飛躍を生み出せるのは理屈にしばられずに考えているときだな、と思う。
わたしはこういう飛躍が、けっこう好きだ。
支離滅裂でわかんないよってなっちゃった人、ごめんね。
なじんだ場所の知らない顔
せっかく足を運んだので、物理的な場所―トークセッションの会場の話もしておきたい。
会場は、代官山蔦屋書店の2階だった。
わたしは、代官山蔦屋が大好きである。
代官山蔦屋はわたしにとってなじんだ場所だったので、足を運ぶのは緊張しなかった。8月の沖縄は緊張しっぱなしだったので、9月はいったん許してほしい。
でも行った先のトークセッション会場は、いつもと少しだけ雰囲気が違っていた。
なんというか、みんなが同じ方向を向いていた。
そりゃそうか。
トークセッションの舞台がある方向を向くに決まっている。
でも普段の蔦屋書店は、そうじゃない。
みんな右を向いたり左を向いたり、上を向いたり、しゃがんで下の方の本棚を見たりしている。
1つの目的を持って〈場〉に集まるとはこういうことなのだな、と今さらながら感じる。
特に意識していたわけではないが、なんとなくわたしは、舞台に対して横向きに置かれているソファータイプの席にすわった。
体を横にしないと舞台の方を見られないが、舞台の方を向いている人たちのことも見られた。
同じ方を向いても、うなずく部分は違う。
同じ方を向いても、くすっと笑う部分は違う。
同じ方を向いていても、となりの人との違いに敏感でいたい。