【ショートショート】解剖所見(約1200字)
とあるマンションの一室で、女が死んでいた。
彼女は体を折り曲げるようにして、床に横たわっていた。特徴的なのは、右手の五本指が左腕に爪を立てていたことだ。いくつか引っ掻き傷もある。とは言え、その引っ掻き傷が死因となったわけではなさそうだ。
見たところ事件性はなかったが、死因がはっきりしないため解剖に回された。
心臓発作も脳梗塞も、毒物あるいは一酸化炭素による中毒も、当てはまらないようだった。重篤な持病の形跡もない。
そこで監察医は、助手にエモ・ライトを持ってくるよう指示した。
西暦20XX年、脳で生起した感情が体内に広がると、感情の種類によって体内の色が変わることが発見された。例えば、喜びならオレンジ色、悲しみなら薄い灰色を帯びた水色、という具合だ。
色が変わる範囲は感情の強弱に比例することも分かった。生起した感情が弱い場合は気管くらいまでしか色の変化が認められないが、感情が強くなると、大動脈、肺、消化管、果ては手足の毛細血管にいたるまで色が変わるのである。
ただし、体の内側に特殊な光を当てなければ、感情による色の変化を人間の目が判別することはできない。その特殊な光が、エモ・ライトだ。
そういった制約があるため、日常生活において、体内を流動する感情の色を読み取って活用されるような場面はあまりない。一般によく知られているのは、消化器系の癌検診の際、内視鏡の先端にエモ・ライトを発する機具を取り付けて、医療者が患者の緊張や苦痛の度合いを推し量る目安とする使われ方だ。
だが、感情による体内色の変化の発見と、その色を識別する技術が最も役立っているのは、生きている人間に対してではなく、死後の人間に対してである。
エモ・ライトを当てると、結果は一目瞭然であった。
女の気管、気管支、肺の色が、全面的にどす黒く変わったのである。厳密に言えば、濃い赤と茶色の混じった黒だった。念のため消化管も見てみたが、口から肛門までを貫く管も同じように、赤茶けた黒でびっしりと覆われていた。
赤みを帯びた黒は怒りの色であり、茶色混じりの黒は憎しみの色である。
監察医は、助手たちに言った。
「ああ、これで決まりだね。死因は、怒りと憎しみによる窒息だよ。ここまで体じゅうを侵食されてしまったら、さぞ苦しかっただろうね」
女は、体内に充満した負の感情が口から溢れ出して他人を傷つけることを恐れたのだろう。左腕に自身で爪を立て、痛みで気を紛らわせることで、怒りと憎しみを抑え込もうとしたのだと思われる。
いったい何が、彼女に窒息死するほどの怒りと憎しみを起こさせたのか、今となってははっきりとは分からない。彼女の周辺を洗っても、推測の域を出ないだろう。しかし、この世を生きる限り、負の感情に体じゅうを蝕まれるのも不思議なことではない。
感情による体内色の変化を見られるようになったおかげで、以前は死因が判然としなかったケースも、今ではほとんどが死因を解明できるようになった。
人間は、感情に殺されることが往々にしてあるのである。
〈完〉