【短編小説】人類救済(前編)
むかしむかし、あるところに、女の子と男の子がいました。
女の子は男の子をアダムと呼び、男の子は女の子をイヴと呼びました。
ふたりが暮らしているところには、朝があり、夜があり、空があり、海がありました。広い大地には、草がしげり、色とりどりの花が咲き、小さな実をつける木や大きな果実のなる木がありました。澄んだ川も流れていました。
空には鳥が飛び、海と川には魚が跳ね、森と草原には、小さな動物と大きな動物が走っていました。
イヴとアダムはふたりきりでしたが、ちっともさみしくありませんでした。イヴはアダムのことが大好きでしたし、アダムもイヴのことが大好きでした。ですから、いつもふたり一緒にいて、いつも楽しく、いつも幸せだったのです。
お日さまの柔らかな光がふたりをやさしく包み、風がそよそよとふたりをなでていきます。ときどきは雨が降りましたが、そんなとき、ふたりは決まって森の大きな葉っぱの下に隠れて、雨の音を楽しんだものです。雨があがって、またお日さまに照らされると、木々も草花も動物たちも、前よりいっそう元気になったようでした。
夜は草に並んで寝ころび、空にまたたく星々を眺めるのが好きでした。
ふたりはいつも裸でしたが、お日さまの下でも暑くありませんでしたし、夜の暗闇でも寒くありませんでした。
ふたりが住む世界は、豊かで、おだやかで、やさしい光に満たされていました。
さて、先ほど、イヴとアダムはふたりきりと書きましたが、本当のことを言うと、イヴとアダムのほかに、おじいさんがひとりいたのです。けれども、おじいさんはイヴやアダムと一緒に暮らしているわけではありませんでした。
おじいさんは、ときどきふたりのところへやって来ます。イヴとアダムには、おじいさんがどこからやって来るのか分かりませんでした。草原のうんと向こうから来るのか、森の奥からか、それとも海のほうからなのか。もしかすると、その全部だったのかもしれません。つまり、草原のうんと向こうから来ることもあれば、森の奥から来ることもあれば、海のほうから来ることもあったのでしょう。とにかく、ふと何か感じるところがあって見回すと、おじいさんはふたりからぎりぎり見えるくらいの場所にいて、こちらへ向かって歩いてくるのでした。
ある日、おじいさんは言いました。
「お前たち、丘の上に大きな樹があるだろう。あの樹の実は、絶対に食べてはいけないよ。ほかのどんな果実も、どんな魚も、どんな動物も食べてよいけれど、丘の樹の実は食べてはいけない。あれを食べたら、ふたりとも死んでしまうから」
おじいさんの言う通り、丘の上には幹の太い樹がどっしりと立っていました。濃い緑の葉を豊かに広げ、手のひらにずしっと載るくらいの大きさの、丸くて赤い実がなっています。
イヴとアダムは、うなずきました。けれども、ふたりとも、おじいさんが言ったことを心から信じたわけではありませんでした。こんなに美しく素晴らしい世界に、食べると死んでしまうようなものがあるとは思えなかったからです。
それに、ふたりには、おじいさんがどういう人なのか、よく分かりませんでした。もしふたりが大人なら、《得体の知れない》という言葉を使ったでしょう。いつも、どこからともなくやって来るおじいさん。イヴとアダムの様子を見て、満足そうにほほ笑むだけでどこかへ帰っていくこともあれば、これをしてもいいがあれをしてはいけない、などと言い置いていくこともありました。でも、おじいさんがふたりと打ちとけて笑いあったり、一緒になって川の魚をつかまえたり、森を散策したり木の実をとったりすることは、決してないのです。ですから、イヴもアダムも、この人はいったい誰なのだろうと不思議に思っていました。どうして自分たちに命令するのだろう、とも(もしふたりが大人なら、《いったい何の権限があって》と思ったでしょう)。
とはいえ、おじいさんのことが嫌いなわけではなかったので、「丘の上の、大きな樹の実を食べてはいけない」という言葉に、おとなしくうなずいておいたのでした。
それに、食べ物は豊富にありました。カリカリとした小さな木の実や、みずみずしい果実、甘い花の蜜、草を編んだ罠にかかる小さな動物や、川の、つやつやに輝いた魚たち。イヴとアダムが食べ物に困ることはありませんでした。ですから、危険をおかして丘の大樹の実を食べる必要はなかったのです。
月日は流れ、イヴとアダムは大人に成長しました。
ふたりはあいかわらず裸でしたが、それはふたりにとって自然なことでした。
ある夜、いつものように草の上に寝そべって、星空を眺めていたときのことです。
「ねえ、アダム」と、イヴが言いました。
「うん」と、アダムが答えました。
「わたし、アダムのことが大好きだよ」
「うん、ぼくもだ。ぼくも、イヴのことが大好きだよ」
ふたりはあおむけに寝転んだまま見つめ合い、ふふふと笑いました。
風はやみ、草木も動物たちもすっかり寝静まって、とても静かな夜です。体の下の、草のにおいが、イヴとアダムを包んでいました。
「ねえ、アダム」と、またイヴが言いました。
「うん」と、アダムが答えました。
「わたし、考えていたんだけど」
「うん」
「アダムの体には、それがあるでしょう?」
イヴは上半身を起こしながら言い、アダムの、腿の付け根の間から垂れ下がっているものを指しました。
「そうだね」
「でも、わたしの体には、それがない」
「うん、ないね」
「それがないかわりに、わたしの体には穴があいてるんだ」
「そうなの?」
「そうなの。それで、考えてみたんだけど、アダムのそれを、わたしの穴に入れてみたらどうなるだろうって」
アダムはちょっとびっくりして、イヴの顔をまじまじと見つめました。アダムは、お互いの体の違いについて、そこまで考えたことがなかったのです。でも、イヴと一緒にできる楽しいことが増えるかもしれないなら、悪くないように思えました。
「もしアダムがしたくないなら、どうしてもというわけではないんだけど」
イヴの言葉に、アダムは首をふりました。
「ううん、したくないということはないよ。そうだね、試してみよう」
アダムが同意したので、イヴはアダムの体に跨がりました。
ふたりは、それをしてみた結果どんなことが起こるのか、何も知りませんでした。ですから、仕方のないことです。
その夜、大空に無数の星が輝くなかで、イヴとアダムは初めてお互いの体をすみずみまで知り尽くしました。それは、おいしい食べ物を分け合ったり、一緒に川で泳いだり、森で新しい木の実や花や虫を見て回ったりすることとは、ぜんぜん違う種類の喜びでした。体の奥のほうから苦しくなるくらいにあふれ出る喜びだったのです。
それから、幾日が過ぎたことでしょう。イヴのお腹が、少しずつ大きくなってきました。
イヴには、そこに赤ちゃんがいるのだということが感じられました。それで、そのことをアダムに告げました。
「赤ちゃん? ぼくたちの、子どもだね! ぼくたちの子どもが生まれるんだね!」
アダムはイヴの両手を取って、笑顔をくしゃくしゃにしました。飛び上がらんばかりに喜ぶアダムを見て、イヴもほほ笑みました。
ふたりは、幸せでした。自分たちの子どもが生まれる日を想像すると、楽しみでしかたありません。この世界に子どもを生むとはどういうことなのか、この世界に生まれるとはどういうことなのか、イヴもアダムも、まだ分かっていなかったのです。
ある日、森の入口の木陰で休んでいると、草原のうんと遠くのほうから、一匹の蛇がやって来るのが見えました。蛇は体を左右にせわしなく動かして、一心不乱といった様子です。茶色い体に灰色の斑点がある蛇でした。
蛇はしゅるしゅるとふたりのそばまで来ると、イヴの大きなお腹を見て、つぶやきました。
「あぁ、遅かった……」
蛇は、もたげた頭をがっくりと垂れています。
イヴとアダムは意味が分からず、「どういうこと?」とたずねました。すると、蛇は気を取り直したようにもういちど頭を上げ、つとめて明るい声でいいました。
「ううん、なんでもないんだ。赤ちゃんが生まれるんだね?」
「そうなの」と、イヴは自分のお腹をなでながら、おだやかな笑みを見せました。
蛇は、ちょっと迷ったように一瞬だけ視線をそらしたあと、イヴとアダムを交互に見上げて聞きました。
「君たちは、向こうの丘になっている実を食べたことがある?」
「いや、食べたことはないよ。おじいさんが、あの果実は食べてはいけないと言っていたからね。食べると死んでしまうって」
アダムが答えると、蛇は「そうなんだね」と静かにうなずき、こう続けました。
「生まれてくる赤ちゃんの幸運を願っているよ」
蛇はイヴとアダムからお礼の言葉を受け取り、しゅるしゅると帰ってゆきました。
それからまた、幾日が過ぎたことでしょう。イヴのお腹から赤ちゃんが生まれました。男の子です。ふたりは赤ちゃんに、カインと名前をつけました。
カインはイヴのお乳をたくさん飲んで、すくすく成長しました。花や蝶や小鳥に手を伸ばし、つかまえてもつかまえられなくても、きゃらきゃらと楽しそうに笑います。
イヴとアダムは、カインをたいそう愛し、慈しみました。
ふたりは、カインにこの世界の美しいものは何でも、見せてやりたいと思うのでした。風にそよぐ草原も、お日さまに照らされた川のきらめきも、跳ねる魚の勢いも、野山をかける動物たちの躍動も、森の、どれひとつとして同じ色のない緑も、あざやかな鳥や花々も。
それで、交互にカインを抱いて、あちこち歩いてまわりました。
どこかで鳥がさえずると、カインはきょろきょろと辺りを見回して、さえずりの主を探します。また、アダムが足をちょっと川につけてやると、カインは水の冷たさに驚いたようでしたが、新しい遊びを知ったように目を輝かせ、足をばたつかせて川に波紋を起こすのでした。
イヴもアダムも、前よりももっともっと、幸せでした。この先、自分たちの人生には喜びだけが燦然と待ち受けていると、信じて疑いませんでした。この世界に子どもを生むとはどういうことなのか、この世界に生まれるとはどういうことなのか、やはり、まだ分かってはいなかったのです。
〈続く〉
後編はこちら
本作は、詩誌『ココア共和国』2023年3月号に掲載された詩を、小説として書き直したものです。
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