道玄坂で転ぶ。ついでに財布落としの刑
派手に転ぶ。二十五歳の男が渋谷・道玄坂で転ぶ。そもそも、なんで道玄坂に来ていたのか?一瞬、忘れそうになる。思い出す。そもそも、大それた理由なんてない。
長年の引きこもり生活に嫌気が差し、心機一転お出かけしようと考えたのだ。ダーツの旅の如く、ランダムに決める。人生ゲームのルーレットの数字を地名に置き換える。東京都の主要な都市を書き込み、回したルーレット。七の目、すなわち渋谷に針が止まったのだ。
渋谷は分からない。道玄坂くらいしか知らない、ということで道玄坂まで来た。結構いい街じゃない、なんて思いながら煙草を吸う、うろつく、煙草を吸う、うろつくのループに閉じ込められていた。なんだよ、家でやってること変わってない?いいのいいの!気分が変わればそれでよし!
引きこもり男が若者文化のトレンドを常に更新し続けている「SHIBUYA」の地を踏むなんて大きな一歩じゃないか。たまたま、選んだ道玄坂であったが、なんだか趣向に合う店が多い。飲み屋がそこかしこにあり、今度は引きこもり仲間の田中と来ようとひそかに考えていた時だった。
地球の重力に慣れていない俺の身体は何かに躓き、バランス感覚を失った。とてつもなく痛い。蹲ってしまおうかとも考える。怠惰な引きこもり生活によって、俺の身体は重力でさえ負担になる超ダメダメボディへと変貌を遂げていた。
ここで、閃く。ああ、俺は宇宙飛行士だったのか。重力に慣れていないのは、これまで宇宙を漂っていたからだね!人類の英知を広げる素敵なお仕事、子供に夢を与える素敵なお仕事。そうだ、俺は素敵な男だったのだ。
バカ野郎。そんなわけないだろと自分に喝を入れる。何ともないですよといった風に、何もない振りをして早歩きでその場を後にした。通りすがる人々は怪訝そうな顔で俺を見る。都会ですっころぶことがそんなにおかしいか!
百メートルほど歩くと、違和感と視線は強くなる。通り過ぎる人々の殆どが、悲しそうな心配そうな顔で俺を見つめていく。家に置いてきたはずの<引きこもり残り香>が香っているのかななぞと思い、まだ開店していない居酒屋を見る。
血?血?俺の頭から血が流れていた。パニックになる。日焼けのない真っ白肌から血が流れている。タオルタオル!何を思ったのか自分の着ている、Tシャツでそれを拭う。拭った後に後悔。
既に蹲っていた。もうだめだ。いきなりSHIBUYAなんて何を考えていたんだ。絶望の淵に立たされているとき、目の前にサラリーマンが立っていた。
「あの、大丈夫ですか?よければこれ、どうぞ」
百パーセント清潔サラリーマンはニコやかな営業スマイルで、これまたアイロンのきちんと入ったハンカチを差し出す。
「ああ、どうも、ごめんなさい」
受け取った高そうなハンカチで自分の血を拭く。
「じゃあ」
サラリーマンは俺が血を拭きとったのを確認すると、何事もなかったかのように歩き出した。お礼を言おうと思ったのに声が出ない。心の中で百パーセント清潔サラリーマンにお礼をする。
しかし、都会にも優しい人間はいるものだなあ。SHIBUYAも案外悪い場所じゃないかも。いっそ住んじゃおっかな~。働いてないのに無理だな~。脳内お花畑のユルユル状態で改札前に立つ。
ここで、尻に違和感。あれ?ない?財布がない?