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『ファウスト』について

 こんばんは。本日第2弾です。こんな感じでいいのでしょうか?さっぱり分かりません。分からないままマグロのように筆を進めております。さて今回は、ゲーテ『ファウスト』について考察や解説を深めていきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

あらすじ

 こちらはゲーテの晩年における集大成です。半自伝小説と言われていますね。二部構成になっていますが、第一部に出てくるグレートヒェンは実在の人物であり、その女の子に向けた贖罪あるいは供養とも言われています。物語の序盤にて学問を修めるファウストの目の前にいきなりメフィストフェレスという悪魔が現れて、契約を迫ります。ここから奇妙なバディ関係に発展していくんですね。契約により若返ったファウストは、ある素朴なグレートヒェンという娘と恋に落ちます。幸せな時間も束の間、ファウストはグレートヒェンに非道い仕打ちをしてしまい、深く傷つけて第一部が終わります(ちなみにゲーテとグレートヒェンのスピンオフが確か旧岩波文庫辺りから出版されていたはずです)。

 続く第二部では記憶喪失になったファウストが過去を「忘却して」、新たな旅に出ます。第一部では人間社会を通してのミクロコスモスだったのに対して、第二部では大きな世界の変動を通しての自己形成ないしはマクロコスモスを冒険します。時代は遡り古代ギリシャ。ギリシャ神話の俎上のうえで今度は女神であるヘレネに魅了され結ばれますがまたも自分の目の前から消え去り、ファウストは失意のうちに旅を続けるんですね。物語の終盤、ファウストは半ばメフィストフェレスと揉めるような形で追い詰められ、最終的に絶命するファウストの魂をグレートヒェンが救済し昇天することで物語は完結します。

解説

 物語の説明で段落を2つも使ってしまいました。元々『ファウスト』はファウスト伝説(フォースタス博士の悲劇)として人形劇の普及が素地にありました。それを見た若き日のゲーテの記憶に残り、のちの『ファウスト』への着想へ至ります。さて、文中で示される魔術とは錬金術(のちの化学)のことです。ただし、神に背くとして白魔術(良い Magia )と黒魔術(悪い Magia )をスプリットさせたものです。黒魔術を仮想敵とし、白魔術という大義名分のもと魔術が信じられていた当時では実験を続けました。こちらは神に背くとの批判もあったようですが、概ね嫉妬によるものだったそうです。ファウストは演劇作品としても上演されており、上映時間は実に21時間かかったようなんですね。大きな体育館に各舞台を設置し、観客も「群衆」として演出に参加しました。
 
 最後のグレートヒェンによる救済の部分ですが、これはそもそも天はファウストを赦す気でいたのか、裁くつもりはなかったのか、審判を通して救われるべきなのか曖昧で直接的な描写はありませんでした。これはゲーテがその著書である『色彩論』で導き出した結論である「曇り」をモットーにしており、白黒つけないこと(中道だったという説もあります)、汎神論者という点から何事も極論を好まない性格が窺えます。ここから少し話を脱線させると、様々な可能性を複合的に考えた際には相対主義にならざるを得ません。極論に振り切る、言い切るということが出来ないように思います。それが時折、相対主義者の一貫性のなさや矛盾として映るのかもしれないのですね。ただ当時ゲーテは自身が汎神論者であることを言えなかったようです。「あなたはどちらなのか」と立場を迫る事態に、どうやら社会問題のヒントがありそうですね。

 ゲーテは植物も研究していましたが、そこで植物と自己形成の共通点を見出します。植物の生長を観察しながら、同時に観察者自らも観察を通して自己形成(エンテレケイア entelecheia )を辿っていくプロセスです。それは教示を読み取る力、能動性や内発性に基づく活動性を主たる源泉にしているもので、生き続けることは活動性を持ち続けることであるとゲーテは示唆しています。それこそが所謂ビルディングスロマンというものなんですね。教養小説としての『ファウスト』をゲーテが晩年に完成させたことからも分かるように、常にストーリーテラーは「老賢者」的立ち位置として読者を導いていく構造であるように感じました。これは宮崎駿が晩年になり『君たちはどう生きるか』のような映画を作ったことにも似ていますね。

 教養小説的な物語では母親的存在が常に死者であること。喪失を受け入れるプロセスのなかで成長や成熟の過程が人々を勇気づけるストーリーとして活き活きとすること。『ファウスト』を通して、文学を読み解くことはそうした味わい深さを改めて私に教えてくれるようです。

 

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