意味ある偶然のパージ
こんばんは。今日もお忙しいなかお読みいただき、誠に有難うございます。本日第2弾です。極端な更新頻度でどうもすみません。最近はoasisを流しながら原稿に向かっているのですが、なかなか認知過剰の凝りがほぐれて血の巡りが良い感じです。ここずっと「産みの苦しみ」を有難いことに味わえていて、それもまた人生を振り返ったときに輝ける思い出になるのだと感じました。これは松任谷由実さんが仰っていたことですが、虹が見えるとき、その真っ只中は雨がざあざあ降っているだけであると言うのです。大変示唆深い比喩だと膝を打ちました。
儀礼としてのパージ
さて、人間がポリス的動物である限り、その共同体の秩序を破壊する(低次元の)トリックスターの出現が後を絶ちません。組織がなぜ組織足り得るかといえば、それは規範があるからです。協調性を持ち、チームワークを大切にし、他者に迷惑を掛けないというのが組織の一員としての最低限の嗜みであります。では、共同体に異物が転生してきたらどうすればよいか。
世界には共同体の秩序を刷新する様々な儀礼が存在します。古代ギリシアまで遡ると「陶片追放/オストラシズム」といった制度がありました。これは、狭義には僭主として君臨する可能性のある暴君を予め排斥し和平を保つシステムですが、広義では集団追放も含みます。この制度が最後に行われたのは実はペロポネソス戦争末期の頃で、制度廃止の理由が徐々に弁論による政治統治に移行していったからなんですね。言論による言葉や対話の発達のその萌芽が古代にその素地を敷いていたわけです。
そのほか、アフリカやパプアニューギニア、日本や韓国にも伝統的儀礼として一度排除して共同体と対象を浄化、そして再統合する営みがあるようなのですが、私の調べ方が悪いのか全然裏取りが出来ないんですよね…。もう少し調べてみます。来た来た。うーん、ちょっと根拠には乏しいですが一応参考文献に載せておきますね。よろしければご参照くださいませ。というか裏取りするまでもなく普遍的に考えれば、その地域一体に最小国家が存在すれば、当然ながらパージしお灸を据えて再形成するプロセスは自然発生するわけで、考えてみれば裏取りするまでもない自明の理なのかもしれませんね(それを裏取りするのが文献学ですか?)。
つまり、何故共同体がわざわざ恨みを買うリスクを背負ってまで対象をパージするかというと、それを儀礼として捉えるならば、秩序が乱されて混沌とした組織から自由自在で傍若無人な癌を一度取り除き、疲弊したコミュニティを立て直すことと、癌が改心してただの細胞になるまでの「冷却期間」として一時的に懲らしめてサンクションを与えるという一連の儀式を経るためです。儀式とは語弊を恐れず言うと「茶番」と換言してもよいかもしれません。勿論、対象がそのまま共同体から離れるならそれはそれでよいので、対象がその後にどのように振る舞うかによっても、その共同体との距離感や繋がり方が異なってくるわけです。その意味で人間は孤島にでもいない限りは原理的にリバタリアンにはなれ得ないのです。なぜなら共同体からの恩恵を受けない個人はいないからなんですね。
イニシエーションから見えるもの
ところで、イニシエーション(initiation)という概念がありますが、これは「個人をある特定のステータスから別のステータスへと通過させること」を意味しており、例えば上記で述べたような諸儀式がこれにあたります。このイニシエーションという概念で上記の諸パージを総括しますね。通過には多大な痛みや苦悩が伴うが、「聖と俗」あるいは「死と再生」を超越することで(イニシエートすることで)、個人が抜本的に生まれ変わり成長・成熟へのプロセスに向かうというものです。ユング的に言えばそれが「個性化の過程」に至るわけですね。
つまり何が言いたいかというと、例えば自分が共同体に属する、あるいは接触した際に不手際を起こし追放されたとします。そのときに当然ながら傷ついたり絶望したり先行きが不安になり、冷静に考えられず視野狭窄に陥り自暴自棄になりかねない事態が想定されると思うのですが、そうした状況でこそ俯瞰視する視座が自分を助けてくれると考えるんです。当然、「キャンセルカルチャー」は由々しき問題です。ただ実感として「やめて」と叫んだところで状況は余計に悪化するばかりです。現状として世の中が不可変的にそうなってしまっています。ですからせめて耐え忍ぶためには自分や取り巻く環境を上から眺めて今後を考えるしかないのです。これは私の紛れもない経験論です。そこにしか逃げ道がありません。
そのメタ認知の一助になるのは知識や智慧です。発想の転換といってもいいかもしれません。そうした地獄と共生するための引き出しを幾つも持っていると、いつか環境が変わることがあります。そのための生きる知識や智慧を提供してくれるのが、取りも直さず人文学の偉大な功績なんですね。人間について諸学問の力を借りて深く思惟することが、人生を生き抜く杖になるというわけです。その意味でも、これまで様々な紆余曲折を経てきましたがやはり私には人文学が必要です。自分の核にあるものであり、故郷のような、あるいはエートスでもあるような自分の根幹を成すものであり源泉です。
だからこそこれからまたパージされたとしても、私は人文学のことを生涯愛するでしょう。
参考文献
小畠純一『心理臨床におけるイニシエーション概念についての研究—セラピストとクライエントの関係性に着目して―』京都大学大学院教育学研究科紀要,第67号,2021(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/262643/1/eda67_249.pdf 参照20240827)
深川宏樹『秩序の構造―ニューギニア山地民における 人間関係の社会人類学』京都大学(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/209789/1/ctz_7_323.pdf 参照20240827)
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