「芯のある人」に強い憧れがある。 どんなことにも自分の意見があって、他の人とか気にしてなくて、かっこいいから。 数年前から、「芯のある人」の真似をし始めた。考えることが好きということもあり、考え抜いた自分の意見にわりと自信を持てていたから、「自分はこうです!」という強い主張ができるようになった。 でも最近は、それが「芯のある人」なのか?と思っている。 今までは、自分の意見で他の人を否定してきてしまったように思う。正解なんてないよなという意識は強くあった。その人が信じるこ
私には、4年間付き合っている人がいる。 とってもいい人だ。人に優しくできて、いつも笑顔でいてくれて、弱ってるときは甘えさせてくれて、私のことちゃんと理解しようとしてくれて。 でもなんだか最近は、「好き」よりも「執着」の方が大きくなってしまっている気がしてならない。 私には、「ああ、この人のこと好きだなぁ」と感じる時がある。散歩しながら下らない話をしているとき。デート帰りにぎゅーしてくれるとき。他にもいろいろ。そういう時に好きでよかったと思うし、これからも好きでいたいなと
さよならドビュッシーを読んでいたら、こんな言葉があった。 武器ーー喧嘩が強い者は腕力で闘う。能弁な者は言葉で、文才のある者は文章で闘う。表現方法というのは、つまりその人の闘い方だ。 (中山七里『さよならドビュッシー』宝島社, 2011年, p. 344) はっとした。なるほどたしかに。「闘い方」ね。 私は今まで自分を表現することを避けてきた。私に興味ある人なんてそうそういないだろう。それに、自分のことなんて知られない方が良いと思ってきた。弱みにつけいられるだけだ。(実
私は、感情をコントロールするのが得意だと自負している。 つらいとき、なぜか客観的になってその状況を面白く思えたりする。それができないほどつらいときは、自分をさらに追い込んでとことん落ち込めばけろっと忘れる。あとはお風呂に入ったり、お笑いを見たり、音楽を聴きながら散歩したり、つらさから逃げる方法をたくさん知っている。(こうして書き出してみると非常に単純な方法ばかりで、自分の浅はかさに驚く。) でも逆に、嬉しいときや楽しいときは、「何か裏があるんじゃないか?」「本当に自分にと
推敲しているうちに言いたいことが分からなくなって、何度もnoteの下書きを消した。 「言葉にする」って難しい。 しかも、それをまとまりのある「文章にする」って本当に難しい。 でも、頭の中のもやっとした”何か”が、言葉や文章という”形”になって整理されていく過程はすごく価値のあることだと私は思っている。 曖昧で矛盾していて言葉にできない、みたいなのも好きだけど。 週に一回くらいは書けたらいいな。
バイトの休憩中に本を読んでいたら、「どういう本が好きなの?」と聞かれた。 私はこの手の質問がとても苦手。好きな音楽、好きな映画、好きなスポーツ、好きな食べ物。好きなOOシリーズ。 好きなものを通して、自分の中身を見られている感じがするからだ。 本当に好きであればあるほど言いたくなくなる。好きな音楽なんて絶対に言いたくない。共感できれば楽しいし嬉しいのは分かっているけど、それ以上に自分のことを知られたくない。勝手に解釈されたくない。 まあじゃあ私のことをどう解釈するのが
備忘録として始めます。考えていることを発散したいだけです。