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真夜中のゆでたまご

※注意※ この記事は解毒noteです。

午前3時。
お気に入りのミルクパンに卵を3つ。換気扇の照明が、琺瑯の乳白色をオレンジ色に華やげる。卵も殻を熱らせて、ゴトゴトと忙しそうに音を立てる。お湯はケトルに任せたので、タイマーは8分。コンロが自動で火を止めてくれるから、私は卵をじっと見守るだけ。壁に身を預けて、暗がりのダイニングに目をやった。



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1つのテーブルに椅子は4脚。私のはそのうち1つ。他は家族が座る。核家族で共働きで子供達も大きくなってきたから、それぞれの生活リズムがバラバラになった。朝早い人もいれば、夜遅い人もいる。不規則な生活の人もいれば、規則的な生活の人もいる。だから食事は各自で勝手に済ます。たまに4人揃って食事をすることもある。4人でいれば何となく今日の出来事を話すし、面白ければ笑う。1人の方が好きな人もいれば、どうしても揃いたい人もいる。食事が終わると、それぞれ持ち場に戻る。部屋に篭って各自好きなことに打ち込む。持ち場がない人もいる。

私の持ち場は、先の椅子と布団の上。文章を書いたり作業するのは布団では難しい。昔使ってた勉強机は、他の人達との兼ね合いで封鎖した。臨時で作られた折り畳みテーブルは、ウォークイン物置クローゼットの片隅に置かれた。そのスペースも、他の人との兼ね合いで閉鎖した。自分の部屋を持ったことがないから、いつも持ち場を家の外に見出していた。カフェや喫茶店でお茶をするのが好き。友達と遊んだり、部活や学校やバイトで忙しいから、家の中に持ち場は要らなかった。

最近の持ち場は「音楽」になった。家族の他の人には全く話さないようにしていた。私のだけの持ち場だから。他の人には一切関係ない。
勝手に稼いで勝手に習い事を始めた。学生アルバイトに理解を示さない家族の一人に、扶養を超えないように強く言われた。学生は学業だけをやれば良いはずだ、と言っていた。持ち場の関係者さんにお願いして、レッスンを隔月にしてもらったり、安い時を狙ってカラオケで自主練したり、アルバイトを増やしたり貯金を削ったりしながら、なんとか最初の半年が経った。

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最近になって突然、
自分が分からなくなった。


例えば、お手洗いのタイミングが分からない。手が痺れたり、こめかみに痛みが走ったり、落ち着きがなくなったりすると、そろそろかな?とタイミングを知る。ご飯のタイミングも寝るタイミングも、涙や笑いのタイミングも分からない。突然泣き出そうとするし、周囲の人が笑う中ひとりで茫然とする。自分が分からないから、相手はもっと分からない。なぜ笑っているのか、何を喋っているのか、よく分からない。


最近調べて知った。
「離人感」という言葉があるらしい。目の前がまるで映像かのように、自分と切り離して見える。「解離症」というものの症状だという。

解離症(解離性障害とも呼ばれます)の人は数分間、数時間、ときにもっと長期間にわたって、自分が行った活動を完全に忘れることがあります。一定期間の記憶が欠落していることに本人が気づいている場合もあります。さらに、自分が自己(すなわち、記憶、知覚、自己同一性、思考、感情、身体、行動など)から切り離されている(解離している)ように感じることもあります。あるいは、周囲の世界から切り離されている(遊離している)ように感じることがあります。そのため、自己同一性(アイデンティティ)の感覚、記憶、意識などが断片化しています。

*出典: MSDマニュアル家庭版 [解離症の概要]より

要するに、小さい頃に肉体的な虐待を受けた人などが、そこから逃げようと精神部分だけ離脱するようになる、というような話だ。『夜と霧』でフランクル氏が言ってたのは、解離症的手法だったのかもしれない。そういう極限状況で起こることらしい。

重要なことだが、虐待を受けたことはない。恵まれた比較的裕福な中流家庭だと思う。塾も部活も遊びも、不自由なく楽しんできた。


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ただ、解離症である確信と、
その原因ははっきりしていた。

自分の部屋を持ったことがないから、いつも持ち場を家の外に見出していた。

コロナ禍の夏休み。
いつもより外出が減った。他の人との兼ね合いで、一日中、持ち場の椅子にいた。ついに無くなりそうなお金をケチりつつも、自分の機嫌を取ろうと努力した。持ち場の椅子で好きな色のネイルを塗り始める。ほんの少しだけ、変化があった気がした。



「くっさっっ!!何これ!」


ダイニングのドアを開けた人が叫んだ。換気扇の排気が追いつかなかったらしい。慣れてしまって気づかなかった。シンナーのような臭いが部屋を充満していた。「窓開けないと換気できないじゃん」と不満げに呟きながら、私の横を通り過ぎた。

なんか、突き落とされたような気がした。
存在を間違えたような気がした。


私は、自分を消した。
顔からは、幸福と表情が消えた。
脳みそからは、意欲が消えた。


日常の小さな出来事。
些細で微細で、目に見えない。
その傷が目立つほど、繊細になっていた。


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新しい持ち場を増やした。映像と音楽の作り方を学べる場所。そこはオンラインだった。

オリエンテーションの日。
私は当たり前のことを知らされた。顔出しする仲間たちの背景には、白い壁や音楽機材。マイクやヘッドホンを持っている人もいた。彼らには持ち場がある。それだけで、悔しくて、何にもならない涙が溢れた。要らない劣等感も吹き出てくる。
私はカラオケに出向いて授業を受けることにした。ポータブルな音楽家も悪くないじゃんか、なんて、空っぽのお財布を握って強がりながら。


結局、家族の他の人にバレて、初期費用を手伝ってもらうことになった。それに伴って、新しい持ち場の話もすることになった。開講時間が遅いから、帰りも遅くなります、と。


「遅くなるなら、ちゃんと場所を決めてもらわないと!心配だもんね!」

やけに大きい声を出すもんだなぁ、と思った。日本語の使い方も少し気になった。自身の焦りをぶつけられているような気もした。そして何より、初期費用を手伝ってもらったこと、話したことを全て後悔した。「せっかく払ってあげてるんだから!」と言わんばかりの顔。

報連相を強いられている気がした。
そちらが新しいことに関わっているという
ウキウキ感の提供を、求められている気がした。
私はまた一つ、持ち場を失った。


私は、また、自分を消した。
顔からは、幸福と表情が消えた。
眼差しからは、現実が消えた。


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午前4時。発作に疲れ頭痛が響く中、お気に入りのゆで具合を堪能する。嫌いな冷房が懸命に働くダイニング。他の人に警戒しながら、気を失うように眠りにつく。



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人が、必死に何かに食らいつこうとしている時、自分なりに考えて行動している時。大声で何をしているかを尋ね、高らかに評価を下す。「かわいそう」「大変そう」「ちゃんとやれよ」「手伝ってやる」。その下品さに心をえぐられ、気が狂い、自分を失いそうになる。どうか、はしゃがず、手を出さず、何も聞かず、ただただ見守っていて欲しいのです。


最後まで読んでくださったあなたへ。
ありがとうございます。自分でも読めない文章を読んでいただけだと思うと、感極まります。あなたの日常に戻れますように、私が大好きな明るい曲を置いておきます。よろしければ聞いてみてください ☺︎

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