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未来の自分に対して何かしらを書いている

2018年くらいからだいたい毎日、日記を書いている。

そう言うとだいたい色んな人に「えらいね!」「すごい」「私は続かなかった」など褒められるのだけれど、そんな立派な目標があってやってきたわけではない。こちとら三日坊主界の女王である。

ただ、過去の日記を読み返すのが趣味なのだ。
私は手持ち無沙汰なとき、SNSを見るか日記を書くか、過去の日記を読み返している。
それで「あーそんなことあった!」「全然感覚違うな」「そういえば○○ちゃんどうしてんだろ」などとニヤニヤするという趣味を持っている。
未来の自分のために、せっせと毎日書いていると言っても過言ではない。

1ヶ月経つと、もう感覚が変わる。1ヶ月前のことは絶妙に懐かしい。
ざっくりとした出来事自体は覚えていても、詳細や考えていたことは抜けている。そのときに対する感覚も全然違うのだ。
半年も経つと、周りの状況や気持ちは様変わりしている。半年前に好きで見ていたYouTubeだとか、人と話した内容の詳細だとかは記していないと絶対に覚えていない。
3年、4年たつと文章の癖などが変わってくる。このへんで、今の自分とはちょっと別人感が出てくる気がする。幼さを感じる。なんか色々乗り越えて来たんだなあ、と感慨深いし、数年前の日常って本当に覚えていなくて、純粋に読んでいて楽しい。
日々のことを軽く記しているだけで、いつの間にか自分にとって超大作になっている。

あと、私はアプリで日記をつけているのだが、これがとても便利。
検索機能があって「あれなんだっけな…」と思ったことを日記内で検索できる。
例えば久しぶりの友達と会う前に「会うのいつぶりだっけ」「○○ちゃんどこに就職したって言ってたっけ」と気になったら検索をかけて、会った時期や前話した内容を思い出すことができる。
あと、しょうもないことでも「前行った美容院で髪色何にしたっけ?」と思ったら検索をかけることができる。
過去のメモってだいたいどこに行ったかわからないが、日記にちょこっとでも書いておくことでこうやって活用できたりする。
あとは日記アプリにも、写真アプリと同じく「○年前の今日」を出してくる仕組みがあり、自然に「うっわ懐かしい!」となる機会が提供される。
(ちなみに「My日記」というアプリです)

だから私は、過去のことを異常に覚えているところがある。人に話したら引かれるから曖昧に忘れたふりをすることがあるくらいだ。

本格的に毎日書き始めたきっかけは、失恋を引きずりものすごくしんどかったとき、日にち薬だということは分かっていても耐えられなかったので、今日も1日過ごしたというスタンプを押すように日記を書いていた。
○日目、と毎日最初に記す日記はめちゃくちゃしんどそうで、でもその中で色んな行動をしたり人に話したり、ちゃんと生きていたんだとわかる。
そして本当にちゃんと、積み上げてきた日々のおかげで立ち直っている。


noteで日記を公開したり、本にしたりしている人を時々見かけるけれど、私にとって日記はとんでもなくパーソナルなものであり、とても人様に見せられるものではない。
万が一、公開し始めたらそのうち裏日記をつけ始めるだろう。なんのこっちゃ。
それくらい、自分の中でだけしか言えないことをデトックスしたい欲は強い。
今まで日記を人に見せたのは、今付き合っているパートナーだけだ。それも書き始めて6年後くらいたった去年ようやく、この人にはちょっと見せてみたいかも、と思えたし、もちろん全部は見せられない。

人に見せるnoteのような文章と、日記や自分しか見ない書き物では、私にとって大きな乖離がある。
家の中ではめちゃくちゃ喋り、外に出るとおとなしくなる私っぽい話だとは思う。

自分しか見ない書き物には、自分の認めたくない部分や「そこまで考えるのは大袈裟なのでは…」というようなことを心置きなく発露できる。
あと、個人的に公開したくない出来事について詳細に記すことができる。
自分しか見ない書き物は大量にあるが、本当に「私が死んだら燃やしてくれ…」と思うようなものばかりだ。死ぬ前には処分方法を真面目に考えたい。

人に見せる文章は、どうしても人目が気になってしまう。あれこれかっこつけたり個人的すぎることはぼやかしたり、体裁も整えたりして、自分から少し離れていく感じがある。

それでも自分の書いた文章であることには間違いなくて、だから昔は、noteを顔見知りに公開するだなんて夢にも考えられなかった。
あの人もこの人も見ていると思うと、人の目を意識しすぎて全く文章が出てこなかった。
今は、信頼できる人にだけは公開している。
そして、直接の顔見知りでもそうじゃない人でも、考えの合う人から文章に対して感想をもらったり共感してもらえたりするのがとても楽しいということも知った。
黒歴史だと思っていたものでも、時間がたつと人に見せてもいいか、と思えたりする。それは確実な変化だ。


日記以外にも、昔から私は空白を見つけるとまるでマーキングのように何かを書きつける癖がある。
メールの下書き。学生時代の数学ノートの裏から2ページ目。ルーズリーフ。仕事中にぱっと開いたWord。
白い紙や自分にしか見えないフォルダ等があると何か書かずにはいられないらしい。書く場所によってテーマも何となく分けていた。
それを数年後に見るのも面白い。これもまた、今の時点で私が死んだら燃やしてほしいものの一種だが。

また私は、小学6年生の頃から、半年〜1年に1回ほど、「未来の自分への手紙を書く」という行為を、26歳になった今でも続けている。
手紙の入った封筒はパンパンになっている。

小6のとき一番最初に書いたのは、卒業式の前だった。
中学受験をしてみんなと離れる予定だった私は
「寂しくてつらいけど、きっとこれは中学に入ったら忘れるんだろう」
みたいなことを語り、
「中学生になったあなたは、今の悩みをどうでもいいことだと感じるんだろうけど、今の切実な気持ちを絶対に忘れないでほしい」
というようなことを書いていた。
未来の感覚を想像して、そう思うんだろうがなお忘れんなよと念押ししているのだ。なんて抜かりのないやつ。

なんか怒られとる

中高生のときは、勉強の厳しかった学校で、色々なことがあまりにしんどいとき、泣きながら書いたりもしていた。

時間がたった未来に、これを書いた自分がどのように読むのか、ということにものすごく関心があった。
今の私と未来の私は、本当に同じ人なのか。時間がたつって、どういうことなのか。

そのことについては、後々高校生の私が言及している。
時間がたつと大人になると思っていたけど、別人になるわけではない。どこまでも地続きで、同じ感覚を持つ自分だった。けれど、確実に時間が積み重なって、変化した自分だと。
過去の自分からの言葉を受け取って、体感として出てきた言葉なのだろう。

最初は20歳の自分へ、と書いていたけれど、20歳を超えてからは30歳の自分へと名目を変えて書き続けている。
もう感覚として遠い高校生のときの苦悩については、今読むと「頑張ってたな、この時の自分にはこうとしか考えられないんだもんな」と距離を取って労れる。
どんなことも、未来に読むと距離を取って労れるように、きっとなるのだ。

この間この件を話したとき、とある人に「時間について壮大な実験をしてたのかもね」みたいなことを言われて、なるほど…と感慨深くなった。

未来の自分は、他者であるけれども確実に自分。
その感覚を不思議だなあと面白がるように、たしかめるように、日記も文章も、手紙も書き続けているのかもしれない。

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