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『三十三年の夢』(宮崎滔天)

宮崎滔天著『三十三年の夢』は、大陸浪人として既に名高かった宮崎滔天が、突如浪曲師になり世人を大いに驚かせるなかで、その、青春の煩悶を経て孫文の盟友として中国革命に奔走するようになった半生を描いたものである。明治35年(1902年)の出版後、内容の面白さ、率直な描写、独特の文体等があいまって大いに評判をとったものである。

明治という時代に生を受け、列強に翻弄されながら近代国家を形成しつつある日本において、自分は何をすべきか、という点に関して煩悶をした青年は数知れない。
滔天もその例外ではなかった。むしろ、その純粋で誠実な性格ゆえに煩悶の程度は大きかった。
そのなかで辿りついたのが中国革命であった。次兄弥蔵の夢と孫文との出会いが彼の生涯を決した。
孫文が心から信頼をした二人の日本人の一人滔天。
もう一人の日本人は日活映画の創業者として成功していく梅屋庄吉。彼は資金面でとてつもなく孫文を支え続けた(一説には現在の貨幣価値に換算すると1兆円を超えるという)。

明治から大正の時代にかけて、辛亥革命を通して日中の関係者が心と心とを通い合わせた幸せな関係がここにはある。
日中関係を考えるうえで原点になる作品である。

1. 著者紹介
著者宮崎滔天(1870-1922)は、明治3年 熊本県荒尾村に長蔵・サキの11子として、有数の地主の家に生まれる。地元の熊本中学、大江塾に学ぶも満足せず上京、仏学塾、同人社、早稲田にも学ぶ。キリスト教に帰依。長崎でのイサク・アブラハムとの交友を通して棄教。熊本小天(夏目漱石「草枕」の舞台になった土地)の有力者の娘槌子と恋愛、結婚。次兄弥蔵の強い説得で、中国革命を生涯の夢、課題とすることを決意する。その後、タイの植民事業などの曲折を経るが、孫文の来日を知り帰国、横浜で初の会見、英雄として評価し、生涯力を尽くすことを誓う。康有為の救出後、志士として有名人になり、孫文の進める華南地域での反乱運動に関与。

  恵州蜂起(明治33年 1900年)失敗後、同志間の軋轢もあって突如浪曲師になる(明治35年)。同時に「三十三年の夢」を発表。
  明治38年(1905年)、中国革命同盟会成立に尽力、日本人会員に推される。黄興と知り合い、意気投合する。ある意味では孫文より親しい関係であった。明治45年(1912年) 孫文の臨時大総統就任式に参列。孫文の借款交渉の立会人。上海で喀血して帰国。袁世凱に権力を譲渡した孫文を故郷・荒尾に迎える。
  宋教仁暗殺事件を契機とした再度の革命運動も失敗、孫文は運動の中心を日本から広東に移す。一方、滔天は、腎臓病などを患い、中国革命運動との接点も希薄化していく中で“悲観病”に陥る。
  大正7年(1918年)、「東京より」連載開始(「上海日日新聞」)。その後、上海日日新聞の紙面を借りて、「出鱈目日記」や「炬燵の中から」等を次々と発表、革命運動の”実践の人”から”文筆の人”、 ”経世家”から”警世家”へと、その姿を変えてゆく。しかし、一貫して中国の革命党への愛情やシンパシーは消えることがなかった。同時に、新人会等の新しい動きや青年たちへの期待を文筆活動面において示すことも忘れなかった。
晩年は夫婦で宗教へ帰依してゆくが、そこには長年の夢を実現しえなかった心のすきまを埋めたいとするかのような鬱屈した心理が感じ取られる。
大正11年(1922年) 12月6日死去。墓は顕聖寺(新潟上越市)にある。

この本を理解するために必要な時代背景について付言する。
国際情勢;阿片戦争以降の欧米列強のアジア進出が一段と強まり、滔天が中国革命を一生の事業として決意する明治24年(1891年)までには、英国は1877年にインドを完全に支配、1885年には朝鮮巨文島を一時的ながら占拠、帝政ロシアはイリ条約を清国と結び新疆地方にも進出、朝鮮への圧力を強めつつあった。フランスは、清仏戦争を経て1887年、仏領インドシナを成立させた。

日本国内の情勢;滔天が上京した明治19年(1886年)は、自由民権運動は過去のものとなりつつあり、世はいわゆる欧化政策の真最中であった。朝鮮半島での日清の角逐や不平等条約改正問題などでの政府攻撃の声もあったが、それも翌年の保安条例の実施で一掃され、心ある青年たちの多くはやがて官界に己の生きていく世界を求め始めていく。一部の青年は、志を得ないままに、所謂“志士”として反体制的な立場に身を置き、己の理想を追求するが、しかしその多くはやがて、“大陸浪人”とか“支那浪人”とか言われるものになっていく。

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