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堀田善衛「漢奸」

堀田善衛という作家は私にとっては「ゴヤ」の著者としての存在であった。
スペインの画家ゴヤに関心を持っていた私は、書店でこの本を見つけ何ページか読み進むと、もうこの本を買わずにはいられなかった。
「ゴヤ」は何回よんだことであろうか。プラド美術館を訪れた時にも、“黒い絵”に触れている第4巻を携えて行ったことを記憶している。
その後、この作家に「堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五(以下、「上海日記」)という作品があり、復刊されたということを知って読んでみた。「上海日記」についてはあとで触れるとして、その他にも彼の上海での体験を基にした作品がかなりあるので、全集の中から中国関連を選びだして読んだ。
芥川賞を取り、その後堀田善衛を世に送り出すことになった「漢奸」が、それら中国関連作品の中でも群を抜いて私の印象に残った(芥川賞の対象作品には、「広場の孤独」等も含まれている)。

漢奸については3の「作品のポイント」で詳しく触れるが、その全てに、日本人として“負い目”を感じることには疑問が残る。しかしながら、日本の大陸侵略、傀儡政権の樹立、占領地域の支配機構の設置などに伴い、中国人を幹部から末端まで起用していった事実は厳然として存在する。日本からすれば、行政の遂行上不可避のことであった。
又、受け入れる中国側にもそれなりの利害や事由があった。
漢奸問題は、そのような背景の中から生まれた。

堀田善衛のこの小説に登場する主人公は、祖国を裏切った罪はあったにしても、判決が示すように、それほど重大な犯罪として処断されてはいない。
しかしながら、”祖国への裏切り“への判決は軽くても、漢奸の烙印を押された人の、その後の人生は極めて深刻で重いものが待ち受けていた。堀田は、そのことを「上海中央日報」に掲載された漢奸を弾劾する詩の題名を使用して、「遺臭万年」と後に表現する。

堀田は、「上海日記」(45年8月11日)に、日本の敗戦を知った衝撃から少し立ち直った後で、武田泰淳との会話の中で、「今日この時の中国人のうつりかわりというものを、人の心の内面の問題として、・・・人の心に染み入るような具合にして内地の人に知らせねばならぬ、それをやるのは、僕ら文学に携わる仕事をする人で上海にいるものの大事な仕事だ」ということを言っているが、作品「漢奸」はまさにその時の堀田の決意の結晶である。

更に付け足せば、帰国後に発表した「上海で考えたこと」(47年6月 中国文化協会)の中で、「(遺臭万年と酷評される漢奸の)こうした痛烈にして残酷極まりない運命をアジア各地にばら撒いたのは、私は偏に私ども日本人であるということを、今日私どもは徹底して知らなければならないと思う」と明確に書き記した。
堀田のこの文章は親交のあった中国の文人たち、親日的で留学経験もある作家たちが戦後漢奸として断罪されていることへの、日本人としてのお詫び、謝罪の気持ちを表明するものであることは言うまでもない。

1. 著者の紹介
堀田善衛(1918-1998)の生涯に簡単に触れておきたい。
富山県伏木町の廻船問屋の三男として誕生した堀田は、1940年、慶応大学仏文科を卒業、外務省の外郭団体・国際文化振興会に就職。「批評」の同人となり、吉田健一、河上徹太郎、小林秀雄などと知り合いになる。1944年、結婚。召集されるが病気除隊。
1945年、3月の東京大空襲に遭遇。3月24日、国際文化振興会上海資料室に赴任。
1947年1月、帰国。1952年、芥川賞受賞(「漢奸」、「広場の孤独」が対象)。
1957年、中国作家協会と中国人民対外文化協会の招待で訪中(井上靖、中野重治、本多秋五、山本健一と共に1月間、北京、上海、重慶、広州などを訪問)。
アジア・アフリカ作家会議設立に尽力。1977年から87年までスペインに住む。
1998年、脳こうそくで死去。80歳。

上海滞在中の経験や自分の心境などを回顧するような作品には以下のものがある。
・ 漢奸
・ 祖国喪失
・ 歴史
・ 堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五
・ 歯車
・ 断層
・ 「対話 私はもう中国を語らない」(武田泰淳との対話)

次に、彼の上海滞在に関するいくつかの疑問、例えば、① 堀田善衛は、どういう目的で上海に渡ったのか。 ② 上海では何をしていたのか。③ 何故、多くの知己の日本人が帰国するのに上海に残留し、国民党の徴用に応じたのか、以上の疑問点を、主に上海日記に基づき解き明かしていきたい。上記の小説も参考にした。

国際文化振興会は、文化交流の傍ら、対外的情報収集、文化工作を目的とする戦争遂行上の必要により設立されたものである。その後、多くの文人たちが関わりあいを持つ中で、戦争の相手国である中国に対して関心が高まっていくのは当然の帰結であった。その中で堀田の中国への関心も強まっていったことは十分想像される。しかし、
「上海日記」やその後の小説の中で、堀田は、本来は、パリに行きたかった、上海は経由地としての意味づけであり、日本を離れる契機として上海赴任に踏み切ったと話している。彼の内面まで立ち入れば、東京大空襲に遭遇し日本の敗戦が色濃くなる中で、自分のなすべきことが見つからないある種の焦り、病気除隊への後ろめたさみたいなこともあったのではないかとも考えられる。
はっきりした目的意識を持つこともなく、偶々飛行機の席が取れたのでやや衝動的に日本を離れたということが私の受けた印象である。

上海に渡っても、実は十分な仕事はなかった。
「上海日記」は、1945年8月6日から始まっているので、敗戦前に彼が何をしていたかの直接的な記述は少ない。武田泰淳の家に同居しながら、日本軍管理下の中国語雑誌の編集顧問みたいなものが恐らく唯一の仕事と称せるものではなかろうか。
何故、中国にとどまったのか、に関しては本人の発言がある。
“ヨーロッパ行くつもりだったから、向こうへ残ろうと考えた”。
しかし、この発言を額面通り受け取ることには抵抗がある。
玲子(堀田の恋人)が日本に去るまでの間は、堀田が中国残留を決めたのは、彼女との関係がはっきり結論を出すまでに至らなかったという事情がまず考えられる。上海の租界生まれ、租界育ちの玲子には、標準的な日本の女性にはない激しさが感じ取れ、妻子を日本に残している堀田には魅力的な存在でもあったことであろう。
玲子が去った後に関しては、作品「祖国喪失」を参考にするしか方法がないようである。
彼の実体験を色濃く反映していると思われる「祖国喪失」の主人公は、恋人も夫とともに日本に去り、何をすべきか見いだせないまま租界に潜み、上海の外国人たちや若い中国人たちとの付き合いの中で日々を送る。積極的に祖国日本から離れ、上海に潜る意志が描かれている。恐らく、当時の堀田には小説に描いたような気分が色濃く有ったものではなかろうか。“エトランゼ”としての生活を“ヨーロッパ行くつもり”と表現したように受け止められる。
中国国民党からの徴用は、その意味では彼には渡りに船であったわけで、本人も積極的に応じたという記述がみられる。同時に、“何とかして中国というものを少しは知りたい、ああいうところなら何か分かるかもしれない”といった発言が示す通り、日本の敗戦・重慶政府と延安政府の対立抗争と言う、今後の中国社会の行く末に対する関心も併せ抱いていたことが読み取れる。

徴用期間中の仕事としては、国民党機関紙「中央日報」論説や英字紙の翻訳、日本人向けアナウンサーの代理、在留日本人を対象とした雑誌の編集等が記録されている。


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