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宮崎滔天「三十三年の夢」(4)

3. 作品のポイント
この本を読むうえでのポイントを考えてみた。
結論は以下の5点に絞ることが出来そうである。
① 明治期の青年たちの思い
熊本中学・大江塾から始まり、キリスト教を棄教するまでの滔天の心の遍歴、何を目指すべきなのか、自分に期待されているものは何か、それを見出すまでの苦悩が率直に描かれている。周囲の多くの青年は、まさに、新国家建設の役割を果たしながら自己も栄達していく道を迷いもなく突き進んでいく。しかし、滔天が親交を深めるのはそういう人たちではない。長崎時代の「製糞社」(ネーミングからして既にシニック)にたむろする一癖も二癖もある連中は、既に、自由民権運動の挫折を経験し、シニカルに世の中を見始めた人々でもある。彼らの一部はやがて社会問題や社会主義などとの接点を見出していく。他方、欧米列強のアジア進出への危機感から、“大陸浪人”や“支那浪人”の道を辿る一群の人たち。後者は、滔天の周辺に限られたことではない。例えば、石光真清は、士官学校卒業後現役の軍人の道を逸脱して“ロシア浪人”になって日本の対ロシア戦略の情報収集に一生を捧げる。二葉亭四迷も、少年期にあった日露千島樺太交換協定に危機感を感じて、外語学校のロシア語科に入学、卒業後の安定した地位を棄てて“ロシア浪人”になる。そこには躊躇いが感じられない。
このような事例は枚挙にいとまなく、明治期の、新しい国家形成の中での己の使命感、己の立ち位置を、立身出世でない分野に求めた多くの青年がいた事実を忘れてはならないだろう。彼らは、求めて自分の道を突き進んだのであって、立身出世競争に敗れて”浪人”の道を選んだわけではない(そのような一群の人がいたことも事実ではあろうが)。
② 中国革命支援の実相
中国がどうなっているのか?
それは江戸時代から識者のみならず一般大衆の関心事でもあった。阿片戦争で清朝が大敗した事実は、武士層に大きな衝撃を与えたことは周知のことであるが、その後の太平天国の乱は、江戸期、絵草子や瓦版で庶民の間にも伝わっている。
朝鮮半島をめぐる日中間の対立、日清戦争、戊戌の変、義和団の乱とその後も日本人が中国を意識せざるを得ない大きな出来事が続いていく・・・。
そのような中にあって、中国国内での散発的な清朝への反乱や暴動なども報道される。康有為の日本亡命は、中国の改革や将来方向などへの関心を一気に高めることになった。今まで、殆ど無視されてきた“支那浪人”がこの事件で脚光を浴び、滔天に至っては有力なスポンサーまであらわれ、待合で日々を送る生活をする・・・。
この本の出版によって、今まで全く知られていなかった孫文を中心とした革命運動の実態、実相が初めて明らかになった。多くの日本人たちの献身的な活動も同時に紹介されて、一般国民からのある程度の理解を得る事につながっていく(辛亥革命勃発の時に、滔天の所に駆けつける江戸っ子がいた事実は、志士たちを応援する庶民の気持ちを代表すると同時に、彼らの中国への関心をも示している)。
③ 何故日本人が中国革命を支援するのか
上記の様に多くの青年が中国や朝鮮への具体的活動も含めて関与していく背景には、二つの大きな要因があると私は考えている。
一つは、自由民権運動の挫折とそのエネルギーの海外への転化である。代表的な例が、大井憲太郎であろうか。
二つ目は、列強の植民地に沈淪するアジア諸国への同情心と列強への反発心である。
本書が出版される前後には、既に、日本が植民地化される危機は殆ど存在しない。
例外はロシアの脅威である。日露戦争の開始は、本書出版の2年後の事である。
しかし、明治20年代には、日本はまだまだ弱国という意識を指導層から一般国民に至るまで持っており、踏ん張らなければ日本もやがて植民地化されていくのではないかという恐怖感は現実に存在していた。その証左が、中国の北洋艦隊が長崎に親善を名目として廻航した時に発生した長崎事件(水夫間の乱闘)であり、それを
機に、本来は民権的主張をもって存立していた玄洋社が国権的主張を強めていくことになった事実である。ついでに言えば、日本人が中国を大国としてみて、ある種の敬意と恐れを未だ多く身に着けていた時代でもあった。

これらを主な背景として、多くの青年たちは中国問題に飛び込んだのであるが、その後アジア主義とか大アジア主義とか言われるようになる国権的な視点からの活動へとその内容を変質させていく。

滔天の場合はどうか。
彼には、国内改革の意識が全くないわけではなさそうである。本書にある「おナカの泣言」や「先ずパンを与うべきか福音を先にすべきか」には、困窮する貧農への同情や、社会の仕組みに対する問題意識が明らかに感じられる。
しかし、その具体的な方策まで彼の思考が行き届く前に、次兄弥蔵の呼びかけがあった。それは、民権家としての意識や正義感を発揮する場所が見出し得ず、幼いころから“大将になれ”と教えられ、何事か成し遂げんとして成らない状態にあった滔天にとっては、全く魅力的な誘い掛けであった。
内容紹介でも触れたが、もう一度、弥蔵の考えを示しておく。
「社会改造の各種議論は畢竟効果なし、”腕力の権による”方法しかない。露国の人道・民権上の脅威。それを救えるのは支那の復興のみ。支那復興すればインド、シャム等のアジアの国々の危機も救える」。
④ 浪人たちの資金源
“支那浪人”たちは、生計を如何に立てていたのか。
黒龍会を結成した内田良平の場合には、叔父の資金援助があり分かりやすい。
滔天の記述には、活動資金は外務省や犬養等の出所によることが明確に記されていることもあるが、家計ということになると、槌子が下宿屋・牛乳屋等を営んでいたことが判明するだけではっきりしない。小天の素封家の娘であるから実家に多くを依存した可能性が高いとは思うが、滔天の気質としてそんなことは本書に書くことは耐えられないであろう。
多くの資料をみた結果、私が理解している事実を述べると;
槌子が上京し再び滔天と一家を構えた後は、ミシン内職、寄稿料、孫文/黄興の義捐金、借金、踏み倒しなどで家計をやり繰りしている。梅屋庄吉(孫文への多額の資金援助者)からも借金している。
いかにも明治期の男を思わせる滔天の発言を引用する。
“革命の金は出来るが妻子を養う金は出来ない。お前(妻槌子)はお前でどうにかしておけ”
金は“阿堵物”(蔑称)であるから“男は触るべからず”という両親の教えの影響。
⑤ 滔天の家庭生活や女性関係
本書には、実名で、滔天の愛人や一夜の恋人も数多く登場する。
妻が、3人の子を抱え家計のやり繰りに四苦八苦している中で奔放な(乱脈とは表現しにくい面がある)女性関係と、その彼女らから、惚れられる滔天。時によりそれは滔天自身の救いとなった(シンガポールの入獄時など)。
女性のみならず男にも惚れられた滔天。その魅力がどこに存するのか、これまた本書の魅力の一つでもある。
尚、庶民の応援もあったに違いない。本書には該当する記述がないのが残念であるが、槌子の回想では、上京後住んでいた番衆町の家を引越しする際に家賃は免除、米屋や酒屋の支払も出世証文をいれて解決したことが記されている。
庶民の同情は江戸文化の名残とも言えるのではなかろうか。

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