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漢奸(4)

 作品のポイント


堀田善衛の「申し訳なかった」という、漢奸裁判で有罪となった人たちへの思いを理解するために、ここで、劉 傑「漢奸裁判」(中公新書 2000年)に記されている漢奸裁判の実態を紹介する。

本書は、大きく二つの部分により構成されている。
前半は、汪兆銘政権が南京に成立するまでの経緯、特に、汪兆銘政権側と日本側との交渉を詳細に紹介している。松本重治「上海時代」に描かれた和平を求める交渉である。日中双方とも、南京に新政権を成立させる基本合意は出来ているにもかかわらず、日本軍の駐留問題や、顧問などの任命、経済的優越地位の承認などを巡ってかなり厳しい交渉を行う。両者の駆け引きの先には、重慶政権の厳然たる存在があるという著者の指摘は鋭い。

後半は、漢奸裁判に関する記述である。
重慶政府の、漢奸に対する方針、法令、具体的な起訴対象事項、等が詳述されている。意外だったのは、各地の傀儡政権の参加者には一律厳しいわけではなく、支配下の人民に対する施政如何では情状を認める柔軟性を示す一方で、敵である日本官憲・軍への協力者には、“裏切り者”として一律厳しい姿勢が示されている。

南京入りした最初の蒋介石政権の仕事は、南京政府関係者の逮捕であった。汪兆銘一族をはじめ、45年9月9日までの逮捕者は4,692人。1947年までの2年間、中国全土(共産党地域を除く?)で漢奸として起訴されたものは30,828人。その内、死刑を含む有罪宣告されたものは15,391人。

新たに公表された「懲治漢奸条例」16カ条(45年11月)は:
① 死刑・無期懲役の罪状を具体的に定める。以下の行為がそれである。
例示:自国に反抗、治安の擾乱、敵のための軍隊募集、敵のための軍需品の供給・販売・運送、武器弾薬の原料の生産、敵のための食糧供給・販売・運送、金銭と資産の提供、政治・経済情報の漏えい・窃取、ガイドなどの軍事的職務、公務員の公務の妨害、金融攪乱、交通・通信の破壊、飲料水・食品への毒の投与、軍人・公務員・人民を扇動して敵に降伏させる行為
② 偽組織・その関係機関に奉職し、敵偽の勢力を借りて敵偽に有利で本国と人民に不利益な行いをした者のうち、その活動が前条第2項以下に列挙されていないものは、前条第1項として処理する。→全て「自国に反抗しようとしたもの」として処断するという意味になる。
③ その他、①の準備をしたものへの量刑(懲役1年―7年)、①の罪人への全財産没収(家族の生活費は考慮)、公開・迅速審理等が規定されている。

汪兆銘亡き後の南京政府を引き継いだ陳公博と周仏海の裁判が取り上げられる。
著者は、前者に関しては最初から死刑が決定されていたと観察する(1946年処刑)。
後者については、裁判上は、高等裁判所、上告審とも死刑判決であったが、蒋介石の命令によって無期懲役に減刑される(1948年監獄で病死)。
後者が死刑を免れた理由として、公開されている理由は、周仏海が終戦前後の時期、上海や江南の地域をよく守り(重慶政府側の意向に従った。周もまた、二枚の草鞋を履いていたといえるし、重慶が側からすると終戦前の”自首”に相当すると解される。)、共産軍の進出を阻止した功績が挙げられている。著者はしかし、そのほかに、彼と蒋介石の密接な関係、とりわけ周の妻が秘密裏に保管していた蒋介石から周への親書の存在を重視する。対日抗戦を標榜している蒋介石としては、和平派の中心人物の一人に対して、密かにパイプを用意していた事実が漏洩される(周仏海の妻は、重慶政権との取引材料としてこの親書の公開を示唆する)ことは忌むべきことだったのではなかろうかと、著者は推測する。

汪兆銘は、終戦後、南京の墓を暴かれ、遺体は火葬されその灰は野原にばらまかれた。
終戦直後に、汪兆銘夫人を保護しろ(「汪兆銘の裏切りの罪は消えないが、孫文に従って革命に従事した功績を考えると、その家族まで追及すべきではない」)と命じた蒋介石が、何故汪兆銘に対してかかる措置に踏み切ったのか。国民に蔓延する漢奸への怒りを無視できなかった事、蒋・汪両者の間に密約があったのではないかという根強い噂を払拭せざるを得なかったこと、等を著者はその理由に挙げている。汪兆銘夫人・陳璧君も逮捕され無期懲役。59年、共産党政権下の獄中で死去。


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