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檀一雄「夕陽と拳銃」

1. はじめに
檀一雄と言われると思い浮かべるのは、「火宅の人」(小説名であるが同時に彼の奔放な私生活が描かれていることから、そのような人を指す意味でも使われている)であろうか。それとも、才色兼備の女優檀ふみの父親としての存在であろうか。
或いは、一時期TV番組に出演、料理の腕前を披露したタレントとしてのイメージであろうか。
「夕陽と拳銃」は、私がこれまで取り上げてきた「後世に読み伝えたい日中関係の本」とは明らかに異なる側面がある。それは、この小説の持つエンターテイメント性であり、換言すれば、この小説の冒険小説的、大衆小説的側面である。これまで取り上げた著作の筆者は、執筆当時に日中関係の現状と将来像に対して真剣に取り組み、自己の思いを、自己の思想を正直に吐露してきたと私は思っている。「人間の条件」や「漢奸」は同じく文学作品である。しかしこれら作品の持つ緊張感、歴史観、後世に伝えていく価値観等に比べれば、「夕陽と拳銃」は、正直なところ大きく劣るものであると言わざるを得ない。
それではなぜ本書を取り上げるのか。
「作品のポイント」で後に述べるように、この本の主人公が活躍する満州と言う場所への当時の日本人の気持ちが、主人公を始めその周辺の者たちによく反映されているからである。公式の日本史が教えるように、“あの戦争”は軍人や政治家だけが引き起こしたものではない。多くの一般国民の中国や満州への思いや感情、打算などを見落としてはならないと考えるならば、「夕陽と拳銃」は“反面教師”的に後世に伝えていく意味を有している。
特に、小説のモデルと目された伊達順之助の実際を知ってみると、檀一雄が創作した主人公との段差が気になって仕方ない。


2. 著者紹介
新潮日本文学アルバム(野原一夫)に従い、檀一雄の略歴を印す。

1912 山梨県南都留郡谷村町に生まれる 父;檀参郎(檀家は福岡藩立花家の普請方・旧家、母はトミ。
1921 トミ、3子を残し出奔(長男一雄への大きな影響)
1932 足利中学、福岡高校を経て東京帝大経済に入学 
1933 文学に傾倒 太宰と知り合う
1935 「日本浪漫派」に合流→太宰、山岸らと共に「青い花」同人。東大卒業
1936 芥川賞候補(「夕張胡亭塾景観」が対象)になる。「花筐」発表。
     満州に3か月遊ぶ。就職を依頼する目的で渡航するが、無為徒食の毎日。 
1937 召集を受け入隊
1940 召集解除。満州の新京に渡り友人宅に。再召集を恐れたのか。本人は「長年見失っていた自分の心身を、ようやく自分の手にたぐりとれたと信じた時に、しばらく北方の天地に、おのれを放置してみたかった」(「青春放浪」)と書く。
1941 満州各地を放浪。10月帰国。12月再び満州に。
1942 帰国。律子と結婚。大政翼賛会企画部に勤務。
1944 陸軍報道班員として中国へ。従軍期間の延長申請。南下を続ける(岳州→長沙→南獄→衡陽→零陵→興安→桂林)「己の心の平衡を匡してみたかった」(「リツ子・その愛」)と後日振り返る。
1946 律子死去。11月、山田ヨソ子と再婚
1948 太宰死去。練馬区に家族と生活
1950 「リツ子・その死」、「リツ子・その愛」を刊行
1951 直木賞受賞(「新説石川五右衛門」、「長恨歌」が対象)
1955 「夕日と拳銃」を 読売新聞・夕刊に連載。
1956 入江杏子と同棲生活。所謂「火宅の人」となる。
1963 佐藤春夫夫妻と紀州旅行。津軽を一周(太宰)、「火宅の人」連作8編発表
1976 1月2日死去(癌) 63歳

放浪癖は幼い時の母親の出奔と父の転勤に伴う転居と関係しているという説もある。
純文学志向ではあったが、直木賞を取り中間文学、大衆文学分野で名をはせる皮肉。
太宰治、坂口安吾との交友は濃厚であり、最後の無頼派と一般的に言われている。

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