宮崎滔天「三十三年の夢」(3)
④ 「素人外交家」から「南洋の風雲とわが党の活躍」まで
折よく犬養から資金を貰った滔天は勇躍広東に出かけ実情を探ろうとする。フィリピン独立運動のアギナルドと出会う。突如、北京の政変(戊戌の政変)が発生、康有為を救出して香港から日本に帰国。日本では一躍有名人になった滔天は、連日待合に出入りする。留香女史(芸者)の情け。孫文と康有為との連携を画策するも失敗に終わる。
哥老会との連携を希望する現地の興中会。孫文は、同志を率いてアギナルドの義挙を助け、その成功の勢いをもって中国に進攻することを決断。布引丸に武器弾薬を積んで出航するも嵐で同船は沈没、別便の滔天は一命をとりとめる。再挙を期す同志たち。
⑤ 「形勢急転」から「経綸画策ことごとく破る」まで
香港滞在中の滔天は、興中会・哥老会・三合会の決起準備会議に参加、酒宴を催して大いに意気を上げる。紅顔の美少年・史堅如との出会いの挿話。帰国して孫文に会う。脾肉を撫す孫文。日本人志士の献金・同志獲得等の経過を経て、遂に、孫文の再度の決起への決意が固まる(恵州事件)。
あたかも義和団事件が勃発、列強と清朝の注意が北方に注がれるのを好機として孫文一派は南方に結集。広州で事を起すために香港を本拠とすることにするが、滔天は孫文の指示を受けて一足先にシンガポール入りをする。当地在住の康有為一派から刺客の疑いで見られた滔天などは、英国官憲に逮捕され入獄。軍資金を多額に保有していたことが嫌疑を呼んだ。1週間後出獄、孫文らとともに香港に向かう。
獄中でのやり取りや彼を慕う女たちの差し入れなどのエピソードが展開され、読者に物語としての面白さを堪能させる。
「大本営(佐渡丸船中)はこの段落でのハイライトである。香港上陸を禁止された滔天。孫文もその余波を受けて上陸は難しい。他方既に広州に先行している革命派は、孫文の指示を待って直にでも立ち上がらんとする形勢。強行を主張する滔天以下の日本人志士グループ。断じて反対する孫文。「わが命は自棄で死ぬほど廉ならず」と。
両者の激論が高じて、滔天は“嘲罵の声”さえあびせる。孫文が、“君は何時の間にかく馬鹿になったのか」というのに対して、「君は何時の間にかく臆病になったのか」と、”子供喧嘩なり“と滔天が後日語るほどの熱い論争でもあった。
喧嘩別れをして甲板に上がった滔天が見たものは香港警察の水上ランチ。初めて孫文に理があることを悟った滔天は、“前非を謝す”。
孫文は、日本軍の支援を期待して台湾に向け去る。
突如、恵州起義の飛電が来て、孫文より、フィリッピン同志のために用意した武器を送れとの指示が来る。武器保管の責にあった代議士・中村弥六の思いもしなかった背任。武器は届かず、台湾の日本軍又動かず、恵州の革命党は押しつぶされてしまった。日本志士間の紛争。滔天が中村と結託して私したという悪声まで起きる。
内田良平の中村に対する激しい憎悪。困惑する中村を推薦した犬養。政治問題化を心配した神鞭知常の仲介で、日本人志士間での“手打ち式”が行われ、一旦ことは収まった。翌年、犬養邸で行われた新年会で問題が再燃、滔天の隣に座った内田から、問題の決着の仕方への不満が出、滔天への批判へと拡大する。昨年来、抑えに抑えていた怒りを爆発させた滔天。内田の投げた杯が滔天の額を割る。カットなって挑みかかった滔天を得意の柔道で投げ飛ばした内田。
滔天には、恥辱と悔悟が深く残った・・・。
「なんらの痴態ぞ」、額に残った傷跡を「失脚の好記念」と諧謔的に記述する滔天であったが、その心の奥の傷は深く、深くいつまでも残るものであった。
⑥ 「孫〇〇に与うる書」から最後の「歌わんかな落花の歌」まで
「孫〇〇に与うる書」は、滔天や犬養、仲介者の神鞭、中村の代理人弁護士、郷里の滔天の親戚等が、中村弥六の背任行為に対して如何に処するか、その対応を詳細に記述したものである。内容は、本書に譲るが、ポイントは、滔天がなぜここまで孫文のために詳しい経緯を書き記したかということである。本人が、この章の冒頭に「婦女の情に似たるかな」と自覚しながらも、書かずにはいられなかったのは、孫文が“一片の疑義”を挟むようなことがあっては堪らないという心情であった。
身の丈6尺を越し、肩まで垂れる長髪と美髯、いかにも男らしい男という印象を与える滔天であるが、実はかなりの心配性であり、人の気持ちに敏感な性格の持ち主でもあった。大江塾に入っていた頃、塾の伝統となっている演説が出来ず、塾をやめる動機の一つになったこともある。又、浪曲師になってからも高座で声を出すことが出来ずに、酒を飲んでから高座に上がるのが通例であったという事実もある。本人の、そのような気の弱さへの自覚が、「婦女の情に似たるかな」という表現となって表れた。更に、本章の最後においても「余がこの文を作るゆえん」を書き、孫文との交友を全うしたいという切なる思いが述べられている。
次の「恵州事件」では、事件の経緯と敗因が詳述されている。
敗因として挙げられているのは、中村の背任に起因する日本からの武器弾薬の送付が空夢におわったこと、孫文が現地に赴けなかったこと、このため、当初の有利な局面の維持が出来ず、現地の会党の首脳陣の意思が阻喪して結局は壊滅状態に追い込まれていった。
戦闘中に倒れる史堅如。山田良政(日本人唯一の中国革命途中の戦死者)の行方不明の知らせ。敗戦の責任を痛感する滔天。中村の「肉を食らいたい」とまで言う。
出家か。家族はどうする・・・・。行く先はなんと、かつての恋人留香の家。
留香の母親に頭を下げ、多くの同志に笑われ、「ああこれ誰の罪ぞ」と嘆息する滔天が、暫くして再挙を期して訪れた先は、浪曲師・桃中軒雲右衛門の所である。
最初冗談と思っていた雲右衛門も、最後には、弟子とではなく義兄弟としての入門を認める。
「夢の世に夢を追うて、また新たなる夢に入る。歌わんかな落花の歌、奏せんかな落花の曲。武蔵野の花も折たし、それかとて、ああ、それかとて・・・・・。」
本作品の最後の一節である。