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富田武「シベリア抑留者たちの戦後」


 富田武「シベリア抑留者たちの戦後」を読み終える。深い沈鬱な気持ち。今もって真相に迫れないもどかしさ。そして時間だけは容赦なく過ぎ去っていく…。
抑留の実態にはあまり触れず、中心は、引揚者が帰国後どのような環境に置かれ(生活苦や入植等の面よりも冷戦構造の中で踊らされた個々人を描写)、米軍とソ連との監視下で、国会その他でいかなる証言を行い、いかなる個人的な経験を遺したか、といった点に注力されている。
著者は、1945年生まれ。日ソ関係史の研究者。


「あとがき」に、公文書の公開が遅れている事(抑留の全体像が把握できていない)、次の世代に伝えていくための授業も含めた取り組みの必要性、そして舞鶴引揚記念館などの抑留関係の資料の保存と公開努力の必要性が訴えられている。

印象に残った個所を記録する;
シベリア抑留者が、ノモンハン事件で捕虜になり帰国できず(「戦陣訓」は捕虜になることを認めず)にそのままソ連移住をしている日本人に出会った事実(1000人以上の残留者?)。
ソ連のジュネーブ条約違反(当事国への連絡、労働の対価など一切なし)。
 帰国を促進・実現させた米国の強い要求(1946年12月→集団帰国開始)。
「賠償」の代替としての捕虜・囚人の使役を当然視するソ連当局。これは、ドイツやイタリアなどの捕虜に対しても過酷な処遇をしていた事実にもうかがえる。


 帰還の遅れは船舶問題ではなくて、ソ連国内の労働力不足への懸念から帰還に反対する要求(地方ソ連政府)と、輸送ネックであった。
関東軍参謀の「賠償としての捕虜使役」を容認する発言。
反動分子の帰国を送らせてほしいとされた「徳田文書」の真偽問題(当時の日本共産党からの要請とする徳田文書なるものが問題視されていた)。 収容所内部での対立と闘争;反軍闘争、将校も肩章を外す、民主化、「アクティヴ」、
帰国者アンケートに見る、共産党・ソ連への親近感・入党意欲とその2年後の大幅減少。
・ 日共パージまでは、保守的立場の帰国促進・支援活動と、日共のそれとの二本立てで行われていた。帰国後に待っていたものは;国会審議、入党要請、警察の監視、スパイ容疑、CIC喚問・尋問、ソ連エージェントの嫌疑等が語られている。
パージ以降は、保守派主導の運動になっていく・・・・。


収容所生活の3大問題:飢え、寒さ、重労働
抑留者総数、その内訳、死者数等の実相は依然として不明。死者数は約6万
公式的には、捕虜総数は594,000人(1945年9月『プラウダ』)
移送者総数:498,907人
死者数;ソ連発表(1956.10)では61,855人、厚生省公式数字:53,000
ゴルバチョウフ来日時の死者名簿:38,647人
「引上げ援護の記録」には、ソ連地域からの帰還者として1946年以降1949年12月までの総数を1,009,931人と記す。

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