堀田善衛「漢奸」(5)
堀田善衛の「上海日記」をもう少し紹介しておきたい。
最初に、この日記の、日本敗戦前後の上海社会の観察記録としての価値に関して。
一番強い印象を与えるのは、45年8月11日の日記に、既に敗戦のことが上海では話されていたという事実であろうか。国際都市としての上海には様々な外国人が住んでいた。彼らのもたらす情報が、いち早く一部の日本人と、中国の民衆に伝播されていったということであろう。
中国商店街に青天白日旗がかかりだした事実、「中華日報」の敗戦を告げる号外、アメリカの旗を出し憲兵に引っ張られたタバコ屋。爆竹音。昂奮して街を歩いている群集。
インフレの昂進についても至る所に記述がみられる。敗戦後、金に困った堀田は、武田泰淳と共に”代書屋”家業で糊口をしのぐが、それだけに物価への関も強かったのであろうか。
敗戦後いち早く物資の隠匿に動いた軍。その物資の市場への放出で一時的に物価が下がる現象が見られるとは・・・。
次に、堀田の中国観について触れてみたい。
敗戦前後を通じて一貫して”高等遊民”的な気分で過ごしたと言える堀田の上海滞在。
日記を見る限りでは、中国の民衆や作家などに対する同情の念や、“済まなかった”という気持ちは率直には語られていない。
寧ろ表現としては、給与遅配などへの不満を背景に、中国への不信と失望(46年8月)が記録されている。
坂西中将の死亡記事に対して、中國紙が、彼の取り調べが終わっていないのであるから死してなお罪ありと書いていることに対して、堀田は、「中国人には罪と言うものの真正な理念がない、従って公正という考えもない。中国人の無信仰さ、性悪説に傾いていることの証左。何とも救いがたい、忌むべきこと」、と書き記し、相当中國嫌いになっているのが窺える(多分に感情的ではあるが)。
堀田も中国に対しては文人趣味的であることを発見して私は驚いたが、詩人としての意識の強い堀田であれば、ある意味では当然であったと言うべきであろうか。
45年12月24日の日記に「こういう場合、僕らはどうしても支那といいたい。中国というとへんに近代的、というのはつまり政治的な感じが濃くなって、人生的な文学的な感じが希薄になるような気がするのである」と書き、更に、「中国という言葉の感じの軽薄さ。これは「近代」という気持ちを日本人に持たせる。しかも中国の近代の惨めさ。日本人は恐らく永久に支那と言い続けるであろう」と言っている。
日記の上では以上のような堀田の対中国観が見て取れたが、小説の世界では、また違った側面が観察できる。もう一つの代表的作品「祖国喪失」では、堀田と目される杉が編集顧問をしている中国語雑誌の編集に携わる若い中国人たちへの、暖かい、同情に満ちたまなざしも感じ取れるのである。編集者の一人の婚約パーティに出席した杉は、そこで延安派の若者たちの謀略の場として使われたこととの関係を憲兵隊に問われる。逮捕された婚約者の女性。自己の保身と救出の責務との葛藤。
最後に、「反省と希望」(1946年6月「改造評論」)で述べられた、堀田の発言を重複を厭わず掲載しておきたい。
① 日本のやり方が常に政策、国策の一点張りでその間に人間性に対する反省を欠いている。
② 日本敗戦のニュースに狂喜する上海市民を見て、「これが日本の何十年かの「対華政策」の結論であり終焉である」と受け止める。
③ 中日関係が一新しない限り、否、なんとでも転回させない限りは、日本人、東洋人の端くれとしての私自身の人生もまた憂鬱極まりないものでないかということを…切々と感じた。
④ 中日の問題に、真に心を痛め、己自身の人生の課題とした人が果たして何人いたであろうか・・・われわれは宋教仁と北一輝、孫文と宮崎滔天などの好き先人に顔向けはならぬはずである。
⑤ 中日両国の「心と心」の問題はここ何十年間一度も解決されなかった。
漢奸、とりわけ文化漢奸と呼ばれている人々に対して、肺腑よりすまなかったと詫びを申し上げたい。
以上