遠藤誉「毛沢東 日本軍と共謀した男」(2015年 新潮新書)
読後最初に考えたのは、これほどの重みをもっている本書が何故日本国内で評判を呼ばないのか?という疑問であった。同時期の著「チャイナ・ギャップ」も、尖閣諸島を蒋介石は放棄したのだから、その後の大陸政権にも自己領土と主張する権利がないことを立証したものであり、政府・外交当局の活用を要望する重大な内容を含んでいるにもかかわらず、これまた、大きな反響があったとは思えない。
遠藤にとっては不本意であったであろう。この2冊で、遠藤親子を餓死線上にさ迷わせ、多くの中国人(その中には日本人も多数含まれておいたはず)を殺した長春包囲戦を仕掛けた冷酷な中共を、その指揮官を徹底的に分析・批判したと本人は思っていたであろうに・・・。
日中首脳や外交当局の雪解けムードがこの2冊をタブー視させているのか。反中・嫌中の論客は何故無視するのか?
本書での遠藤の主張点は;
① 日本の中国侵略を毛沢東が歓迎したのは本心から。戦後会見した日本人に、「謝罪することはない、感謝している」と言っているのは事実そう考えているからだ。理由は、彼の中国制覇にとっての最大の障壁・蒋介石を打破する(その軍事力を弱める)点で日本侵略は有効であるから。中国より個人の偉業優先。日本との本格的交戦の禁令。建国後の教科書では日本の侵略という言葉はなく「進攻」にとどめている事実らがその傍証。小さく戦い誇大に戦果を宣伝する。会議では「打倒日本」、戦闘は「避実就虚」。
② 日本軍との共謀事実
蒋介石軍情報の日本への提供(中共側が日本から対価を受領している事実)
新四軍と日本軍との不可侵交渉(岩井の回想。148頁)
潘漢年(スパイ)・袁殊・祝岩井公館・岡村寧次・影佐大佐・都甲大佐等の当事者。
根拠となる文献→岩井英一「回想の上海」。謝幼田「中共壮大之謎」(坂井臣之助の翻訳あり 草思社 2006年)
潘漢年等の日本軍や汪兆銘側と接触した人物はその後投獄され獄死。
当時共産党の指導者・王明との論争で、毛は日本や汪精衛との統一戦線を組んで蒋介石を打倒すべきと主張。
独伊日ソ連盟を目指す(王明の英米仏ソ路線に反対)→王明「中共50年」による。
王明は、毛沢東主張の解説として「親日路線の隠ぺい。ソ連の威信低下」を挙げている。
毛沢東は、新四軍の政治委員に直接指令。王明は知らされず。蒋介石はその事実を把握して反共宣伝に使ったが、中共による洗脳が強く人民には無効であったと遠藤は書く。
③ 汪兆銘政権へのアプローチ
1943年3月2日の「周仏海日記」。その息子の父親に関する「回顧録」が根拠。
毛沢東の汪兆銘宛の書信(1942年)では「相互不可侵の協力」を毛から提案
④ 「共謀した」のではなく正確には「共謀しようとした」というのが読後の私の論評。本書には全体的に言葉が走りすぎるきらいが感じられる。
⑤ 毛沢東の帝王志向とインテリ嫌い
王明の記録「中共50年」に、「死後も永遠の帝王として崇拝される」毛自身の言葉としてその渇望が記載されている。インテリへの迫害は良く知られた事実だが、その根拠に王明等のモスクワ派への嫌悪と反発、北京大学図書館時代の冷遇等を遠藤は挙げているが、やや強引か?
⑥ 南京事件への毛の言及がない事実の指摘は目新しい。「南京失陥」とあるだけという。延安で自己の勢力圏の拡大だけを図っている事実が人民に知られることへの恐れがそうさせたのではないかと遠藤は推測する。→中国国内でも今これを問題視する言論がネット上に出現していると遠藤は指摘。
日本敗戦後も中共側との交戦より生じた日本兵7,000人の死傷(中共側の武器回収作戦)者が出たという事実は重い。