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「ペリー艦隊遠征記」(下)


 琉球政府への要求
・米国人が市場で自由に物資を購入する権利を認めること。支払いはする。
女子たちが米国人を見て逃げ惑うことをしないように。
密偵制度(米国人への監視・尾行)の廃止。
・ ペリーの2回目の日本来航が早まったのは、仏蘭西やロシアの動きが気になったか?
・ 琉球人と日本人との類似性を、身体的特色や言語上の類似点などから論じている(91頁以下)
・ 琉球女性は社会的地位が低く、単なる家畜か奴隷とみなされていると理解
・ ベージル・ホール大佐の琉球認識は、琉球の住民は「戦争を知らない」。そのことをセントヘレナでナポレオンに語った旨の事が記載されている。
ペリーの記録も「武器、弾薬のみならず弓矢のような最も幼稚な攻防武器さえもなさそうだ」と記し、ホール大佐説を肯定している。

日本での最初の交渉上の論点は交渉地の決定→前回の久里浜(日本)vs横浜(米国)。その後の艦隊江戸接近により10日後に日本側譲歩する。
・ 日本側の供応。陽気な松崎代表は「日本とアメリカの心は一つ」という意味の言葉を繰り返した。日本人のもてなしは大変手厚いものであったが、料理の量や技術水準で米国人は不満を感じたと記されている
・ 日本からの贈り物に犬が含まれていた。それも貴重品種で複数回である。
・ “包飯”の習慣→日本側は上級武士でも宴会が終わると懐紙を使って残り物を包んで持ち帰る。米国人にもそうしろと示唆する。米艦での宴席でも平気で同じふるまい。
・ ペリーの観察した日本人(彼らは上陸して農村などを歩き回った)。
社交好き、礼儀正しい、女性の地位も高い(理由として中国のような一夫多妻制度がない)。既婚女性の鉄漿(おはぐろ)には幻滅を感じたようだ。

 和親条約
2港開港(下田・函館)、遭難者の相互救助、遭難者の相手国での非拘束、開港場での自由歩行区域の設定、領事駐在(18か月後 )
・ 下田の日本の民情観察
「乞食は居ない、非生産者(武士階級)、混浴、下層階級は負担が大きいにもかかわらずそれなりの良い生活をしている」という記述がある。
・ 下田の米艦への吉田松陰の密航計画。ペリー拒否・捕縛・江戸送り。密航しようとした日本人二人の好奇心、探究心への米国側の高い関心と評価。
・ ともかく挿絵が豊富にあることも含めて、日本の状況への観察が細かくなされているのには驚く→自然・地形・植物・社会・暮らし・産業等が詳しく紹介されている。神奈川、下田、函館訪問時に同様に挿絵がなされている。
・ 下田での追加協定→上陸した米国人への対応、米国人墓地、石炭供給、函館の米国人の行動範囲、狩猟禁止

琉球での米人溺死事件→琉球当局は犯人を米国側に引渡しその処罰を容認。提督は拒否・琉球の法での処罰を要求。
・ 琉球との協約案では琉球を独立国として米国は表記したが、中国との関係をおもんぱかる琉球側は問題視。協約の個々の内容は、全て琉球側は了解(すでに日本との条約を知っている?)する。
・ 協約の日本訳を見る限り、米国側の要求(浸水の供給や物販の販売、難破船への対応等)を琉球側が“義務的に”承諾する内容となっている。

ペリー艦隊は、台湾の視察まで行っている。
小笠原には既に「ピール島(父島)植民地」という名前の自治組織が存在していた。ペリー艦隊は母島を正式に占拠、コフィンという名前を付けた(米国捕鯨船の船長名)。→1853年12月、英国政府のクレーム。「すでに英国領である」。

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