三島由紀夫「金閣寺」(1)
今年は、三島由紀夫が自決してから50周年である。10月から、そのことを思い出して久しぶりに三島由紀夫の小説を読みだした。「豊饒の海」が最高の作品と思っているが、同じ位置をこの「金閣寺」も占めている。前者はあまりにも大部であるので、ここでは後者の読後感を記してみたい。
「金閣寺」を読み終える。読みごたえがあった。主人公(映画では市川雷蔵)「私」の心理の推移に関して十分に理解できたわけではないが、通説の、人生への屈折感(それは生来のドモリと醜い 容貌、貧しいお寺の小僧としての扱いなどに起因)、老師への反抗と住職の道が閉ざされたことへの挫折感、等だけが主要原因ではない。これらの要素をもちろん否定はできないのだが、三島の視点は、美への認識にあったであろう。
父親から幼いころから金閣寺の美しさを教えられ、夢想が現実になって、つまり金閣寺に修行僧として日常を送り、父親と老師との関係からうまくすれば金閣寺の住職になれるかもしれない期待まで持てるような現実があった。疎遠となるかつての良き友鶴川。
大谷大学に通学し始めた「私」を魅惑したのは、内飜足を持つ柏木(映画では仲代達矢)であった。内飜足を武器に人生を悠々とわたっている柏木。女性に対してもその武器を活用。
やがて俗悪世間に染まりだす「私」。3,000円の借金と「私」の出奔。それは、ある決意を決定づけるための旅行でもあった。
「悪は可能か」というテーゼは初期の段階で出てくる。
「無言で私を支配しのしかかっているものの圧力から逃れたい」という記述に注意する必要がある。将来の犯行への伏線を示している。。
米兵に強制されて妊婦の腹を踏んだ事件。黙したままの老師。無言の圧力に耐えかねて釈明の機会を求める「私」。無言は続く・・・。
老師との確執は、その後も続いてゆく。芸子を連れた老師と出会った私」。無視への復讐としてその芸子の写真を朝刊の間に挟む…。無視されて募る反感。
現実の生活、それは女との交渉であるが、金閣寺が「私」の目前に突如現れて邪魔をする。同じような出来事が相次いで起こる。
金閣寺その美しさへの憧憬・陶酔・讃嘆。それらが次第に自己の生きざまへの邪魔者として映りだしてゆく。「金閣寺を焼かなければならない」との認識。認識から行為までには、何らかの引き金と自己の人生の清算が必要であった。老師の怒りを期待するも空振りに終わる。人生の清算は、五番町で済んだ。
犯行への きっかけは火災警報機の故障であった。