【連作短編】旅の罪(2/3)
『ヤス、旅に出ようぜ。方法はある』
久しぶりに会った一太郎の第一声がそれだった。
『旅人になったらどこにでも行けるんだ。世界中、好きなところに好きなだけ、な』
たった一人の幼馴染は、熱に浮かされたように旅への誘い文句を並べ立てた。
田村泰道は、初めこそ無茶苦茶いいだす幼馴染に呆れたが、長い長い口説き文句に次第に飲み込まれた。
そして、とどめの一言が少年を決心させた。
『もし、お前が親父さんと同じような人生で満足するなら、それでいい』
もちろん厭に決まっていた。
夜の住宅街を早足で歩く。
泰道の心臓は痛いほど鼓動している。
目的地の公園には、一太郎と、旅人の出国を手伝う”船頭”が待っている手はずになっていた。
家を抜け出すまでは案外簡単だった。
少年の父はいつものように遅くに帰ってきて、洗面所にも立ち寄らず寝室に入った。
母はその前から寝ていた。
忍び足で玄関に向かい、夜目が利かないなか靴を探った。
泰道にとって旅の第一歩だった。
いざドアを閉めて鍵をかけてみると、あまりの呆気なさに少年自身がびっくりした。
彼は、歩きながら、ピアスとタトゥーで埋め尽くされた一太郎の顔、それに”船頭”の角ばったいかつい顔を思い返した。
あの壮年の男は言葉を尽くして二人の少年を引き留めようとした。
ガキには死んでほしくない。
思い直せ。
ベッドの上では死ねないぞ。
泰道が冷や冷やしている隣で、一太郎は満面の笑みを浮かべて、トランプカードほどの大きさの電子ペーパーを突き付けた。
『じゃあ、あんたは死んでもいいんだな? エンドウさん』
そこには”船頭”の顔画像とともに大きな文字が書かれていた。
〔遠藤治 強盗殺人犯 指名手配中〕
警察庁が国民にダウンロード配布している電子手配書だ。
”船頭”こと遠藤の顔が瞬く間に青くなった。
泰道はといえば、目の前の男と指名手配犯が同一人物だとたったいま気づいて、背筋がひやりとした。
あの瞬間から”船頭”は悪ガキたちに逆らえなくなった。
当の悪ガキの一人は、歩きながら、いろいろなことを考えた。
父のような生き方をする気はとっくの間に失せた。
ブレインチップの夢に酔って廃人になるのは論外としても、だ。
世間では、少なくともニッポンでは、父のような生き方が一番人間らしいとされている。
朝早くから夜遅くまで働いて、酒に酔いしれて、ベッドに倒れこむ。
それを毎日のように繰り返す。
休日の楽しみといえば好きなだけ寝ること。
情報自律に移行しつつある社会、その中産階級はこうして生きるもの、と決まっていた。
いや、プレイヤーたちがそう決めた。
この世界のたった数人の管理者たちだ。
なかでも、世界の半分を管理していると噂されているトッププレイヤー”キング”にはいろいろな憶測がなされている。
本当は連名じゃないのか。
”キング”という人物は存在せず、マシンがすべてをうごかしているのではないか。
とはいえ、人々の関心は別のところにあった。
実に素朴な疑問だ。
あいつらは何を楽しみに生きているんだろう。
壮絶な権力争いに勝ち抜き、壮絶な業務に追われる人生に何を望むんだ?
文明社会風の豪華な食事やパーティー?
偏執病がかった権力欲?
歴史に名を刻もうとする悲願?
泰道もそんな話をよく学校でしていた。
明確な答えを出せる奴は、いまのところ一人もいなかった。
そのとき、突然一太郎の声がした。
「ヤス!」
泰道は驚きのあまり叫びそうになった。
辛うじて声量を抑えながら、
「イチ! どうした?」
悪ガキのもう一人は息を切らせながら、聞こえるか聞こえないかの声でいってきた。
「遠藤の野郎がパクられた」
しばしの沈黙が二人の少年の間に流れた。
泰道は胃が縮み上がって凍るような感覚に耐えていた。
「よりにもよって例の公園だ。俺が着いた時にはパトカーが停まってて、あいつがしょっ引かれるところだった」
「お前はどうやって切り抜けた?」
「知らん振りするしかないだろ。問題はこれからだ。遠藤の奴、取調で何をどこまで話すか分からない」
途方もない不安と絶望が少年を襲った。
まるで巨岩が転がってきたように足がすくんた。
「イチ、どうする?」
「知らねえよ。なあ、俺たち、別々になったほうがいいと思うか?」
混乱した頭で必死に考える。
「いや、職質される確率が二倍になるだけだ。ここら辺に目立たないところはなかったか?」
「ない。ここらへんにもパトカーが巡回してるかもしれないし……」
一太郎の言葉を遮るように、低い声がした。
「お前らか?」
泰道は飛び上がらんばかりに驚いた。
一太郎は全身を硬直させて声の主を凝視している。
「安心しろ、俺は警察官じゃない。少し時間をくれ。旅がどんなものか教えてやる。ついてこい」
少年たちには訳が分からなかった。
「ついて来いといっている。もし警察に出くわしたらその場をしのいでやる」
男は独りでに歩き出した。
旅装だった。
白髪交じりの髪が街頭に照らされている。
警察官や、遠藤のような男が持つ力とはまったく異質の迫力に、悪ガキ二人はすっかり気圧されてしまった。
二人はアイコンタクトを交わし、おずおずと旅人についていった。
「歩きながら聞け」
旅装の男は途切れることなく言葉を続けた。
「いまのお前らが旅に出たところで、ただの死出の旅になるだけだ。お前ら、世界について何を知っている? 一分以内に説明してみろ」
「情報自律と文明が混在しています」
即答したのは一太郎だ。
「お前は?」
今度は俺に矛先が向いた。
即答というわけにはいかなかったが、なんとか知恵を絞って答えた。
「まず、イチ……こいつと同意見です。そして、今の俺には想像できないほどの自由と危険が待ち受けていると思います」
旅人は、ふん、と鼻でため息をついて、少年たちに命じた。
「おい、ここに入れ。入れ墨の小僧、お前はもっと帽子を目深にかぶれ」
示されたのはごみ捨て場だった。
「何をしている。警察は待ってくれないぞ」
そういう間にも、旅人はビニール袋の山に身をうずめた。
そして、寝たふりをしてみせた。
誰がどう見ても浮浪者だ。
異臭を放ち、ハエとも何ともつかない虫が飛んでいるごみの山に、まず俺が飛び込んだ。
一太郎は最後までためらっていたが、旅人に促されると、帽子のつばで顔の入れ墨を隠すようにして、ゴミ袋の山に体を突っ込ませた。
泰道は壮絶な不快感を我慢して、目を閉じた。
ころん、と音がしたので、再び目を開けると、空の酒瓶だった。
「よし、世界というものを少し教えてやる。手短にいえば、この状況より百倍も二百倍もひどい」
あれだけまくし立てた一太郎も、しばらく一言も言葉を発していない。
「もちろん、悪いことばかりじゃない。そこもちゃんと教えておかないと不公平だからな」
旅人は、街灯にたむろする虫を眺めながら、言葉を続けた。
「高地の澄み渡った空気、空高くそびえ立つ山脈、手がかじかむほど冷えた甘い湧き水。喉がカラカラのときにあれを飲んで、生きていることを心の底から実感したよ。それに、腹をすかして死にかけていたとき、親切な文明人が食わせてくれた麦と野菜くずの粥。あの粥より旨い食い物には二度とありつけないだろう。だがな」
旅人は少年二人を交互に見やった。
「文明人の武装集団に丸ごと占拠された都市がある。貧しい家から強奪した一袋のトウモロコシ粉を、その日の麻薬と交換する輩だっている。紛争地帯には行かないようにしてるが、ああいったところじゃ、親を殺された十歳の子供が銃を握るなんてザラだ。この首の古傷は落石にあったときのやつだ。まだ聞きたいか?」
「いえ」
泰道と一太郎は異口同音に応えた。
「俺もそのほうが助かる。体力は温存できればできるほどありがたい」
「それじゃあ」
一太郎が、勇気を振り絞るように尋ねた。
「どうしてあなたは旅を続けるんですか?」
「よく聞かれるよ」
男は自嘲気味に笑った。
「お前らと違って、帰るところがない。そして、俺はくたばるまで詫びなきゃいけないんだ」
「詫び?」
「ああ、詫びだ。旅を続ける限り詫び続けなきゃならんが、旅装を解く気もない。旅慣れると、旅すること以外考えられなくなるんだ」
「旅人さん」
不意に一太郎がごみの山から這い出た。
「幻滅しました。俺が勝手に抱いていた幻想に、ね。もっと心躍る出来事が待っているのかと思ってたよ」
「それだけはきっぱり否定してやる」
そうでしょうね、と一太郎はいって、
「素行不良で高校を追い出されちまった以上、役人になる道すら、俺にはもうない。友達を巻き添えにするなんて以ての外だ。おい、ヤス」
「なんだ?」
「お前、家に戻れ。ムシャクシャして思わず家を飛び出した、とでも言い訳しておけばいい。おじさんもおばさんも事を大きくしないだろ。それこそ役人の家庭なんだからな」
「おい、イチ」
「俺は働き扶持を探す。もし、これから警察に遠藤のことを聞かれたら、そのときは俺が引き受ける。お前とは縁を切ったってことでごまかしてやるから。旅人さん、あんたのことも口外しないし……」
「待て、待て。話を勝手に進めるな」
泰道が言葉を遮ると、やはり有無をいわせない口調で旅人がいった。
「いや、この入れ墨坊主のいう通りだ。入れ墨、お前は度胸が据わったようだな。さあ、未来の役人、家に戻れ。職質されたらこいつのいった通りに誤魔化せばいい」
「旅人さんの言うとおりだ。ヤス、お前とは縁を切ったことになってるから、絶対に忘れるんじゃねえぞ」
全身の力が抜けた。
はたから見れば演技と間違われていても仕方なかっただろう。
泰道は力なくいった。
「わかったよ。あきらめるよ」
悪夢から覚めたと思ったらまだ悪夢の中だった。
それに似た感覚だ。
今度は泰道が自嘲気味にいう番だ。
「イチ、旅人さん、達者で」
「おまえもな、ヤス」
旅人は無言のままだった。
さっき来た道を戻る。
途轍もない絶望感が少年の足を重くした。
服が臭い。
むしゃくしゃしてゴミ溜めに飛び込んだとでも言い訳しよう。
あの汚い山に突っ込んだのは嘘じゃない。
俺は世界で一番みじめなティーンエイジャーかも知れない、と少年は大まじめに思った。
今まで生きてきたなかで、暗雲以外のものをみたことがない。
彼は、かつてない人生の暗雲をやり過ごしてもなお、憂鬱にとらわれていた。
それにしても、去り際、旅人がいった一言が耳について離れない。
あの旅人も大概だ。
『すまんな、旅なんてものに幻想を抱かせてしまって。』
(続)