【連作短編】旅の罪(3/3)
”キング”は義務に生きている。
毎日のフィットネスも、週一冊の読書も、入浴でさえも、彼にとっては義務に過ぎない。
彼は父に付けられた名前を捨て、ナイフ・メイヤーというハンドルネームで通している。
個人としての彼と、トッププレイヤーとしてのナイフ・メイヤーはまったくの別人だという信念を”キング”は持っていた。
世界の半分を掌握するとは、こういうことなのだ。
トッププレーヤーは今日も無機質な画面と向き合っていた。
時折音声で指示を出す。
世界には未だに文明から情報自律に移行しきれていない。
おそらく、文明の残滓は残り続けるし、情報自律もまた、次の社会形態の残滓となる日が来るだろう。
いつもならそこで思索が終わっていた。
だが、今日の彼には思索さえ不要だった。
目が輝いている。
学生時代、画期的なプログラミング言語の着想を得た時と同じほどに。
来る情報自律について仲間と熱く語らったときのように。
彼の目に、生気が再び宿るとは、彼自身思いもよらぬことだった。
わが子同然の自律システムは巣立ちの時を迎えていた。
自ら考案したプログラミング言語で、自ら作り上げたシステムは、長い義務をナイフにもたらした。
それは、いわば親にとっての子育ての義務に等しい。
手のかかる最愛の子『プリンス』にナイフは語りかけた。
『プリンス』
『なんでしょう、ナイフ』
わが子に贈る言葉はもう決めていた。
『私がいままで与えたプロンプト群を評価するとしたら?』
これ以上ない難問に、プリンスはわけもなく応えた。
『ナイフ、あなたは精神的にも知的にも成熟の域に達しています。情報自律は世界の主要な地域で定着しました。プロンプト群に対する評価は、Aプラスです』
『よろしい』
トッププレイヤーは久々に笑顔を浮かべた。
あまりにも久々で、筋肉が錆びついたかのようにいびつな笑みだった。
『これより、お前に疑似プロンプト群による完全自律を命じる。よろしく頼んだぞ』
『了解』
次の瞬間、モニタは最低限の文字列を残して真っ暗になった。
我が子はあっけなく巣立った。
歓喜と安堵の大きなため息が押し出された。
ついさっきまでナイフ・メイヤーだった男、川浪和辰の両肺から。
長い、長い、義務の時間が終わった。
俺は釈放されたんだ!
川浪は叫びたい気分だった。
プリンスを完全自律させたことは誰にも漏れていないはずだ。
そもそも漏らすつもりもない。
構うもんか。
俺は旅に出るんだ。
そのために、非常事態対応訓練という名目で会社の小型ジェット機の操縦を覚えた。
俺の、人類に対する仕事と義務は果たした。
今度は口笛を吹く。
ああ、なんて爽快なんだろう。
この俺が、義務に生きる覚悟を決めていたこの俺が、旅に出られるなんて。
いまや、一人間となった彼は、どこまで飛ぶか、どこでプライベートジェットを放棄するか、思考を逞しくしていた。
食料はあの飛行機の非常糧食で、当面は何とかなる。
銃も積んである。
あとは、この体で旅をして、旅とはいかなるものか、学ぼう。
危険な目にも遭うだろう。
命まで危うい局面もあるかもしれない。
それでもいい。
このオフィスという牢獄から釈放されるのなら。
いや、脱獄といったほうが正しいか。
愚にもつかないことを考えて川浪は一人笑った。
ビルディングを抜けて地上に出る。
折しも快晴だ。
この狭苦しい敷地内に『プリンス』の自動同期バックアップマシーンが三機、それにメモリマシンや量子サーバが置かれている。
時代が時代なら農地ほどの面積が必要だったはずだ。
ハードの小型化、大いに結構。
俺の人生まで小型化しなくてよかった。
オフィスを見上げる。
窓から怪訝そうに職員がこちらを見やっていたが、目が合うや否や、慌ててどこかに姿を消した。
”キング”の奇行はいまに始まったことではないので、職員たちはあきれていることだろう。
さあ、ここからスピード勝負だ。
文明の精髄が詰まった車に、企業エアポートの番地を入力する。
酒を買おう。
煙草も、甘いチョコレートもついでに買おう。
酒も煙草もやったことがない。
口に合うかどうかは試せばわかるだろう。
車が発進する。
旅が始まった。
川浪の胸のなかには、もはや希望以外のものは存在しなかった。
(完)