流れがわかる日本史⑫
今日から鎌倉時代に入ります。鎌倉時代は一般的に1192年に、源頼朝が征夷大将軍に任命されて始まると言われています(諸説ありますが)。そして1333年に鎌倉が攻め込まれるまで続きます。約140年間の政権でした。鎌倉時代は、ざっくりと前期・中期・後期に分けられます。前期は執権政治の確立期、中期は執権政治の安定期、後期は得宗専制政治による不安定期です。
本日は、鎌倉時代の前期、執権政治の確立期についてお話をしたいと思います。幕府の最高権力者であるはずの将軍ですが、頼朝が1199年に謎の死を遂げると、2代将軍頼家には求心力がなく、将軍独裁体制をとることは出来ませんでした。故に有力御家人十三人による合議制じが慣例化していきます。関東の武士たちはもともと独立色が強く、一人一人が実力を兼ね備えていたので、将軍が頼りなければ、自分たちで話し合おうということが自然のながれでした。すると、今度は合議をする人々の間で主導権を握ろうと、御家人同士が対立し始めるのです。主導権を握ることができれば、会議を有利に運ぶことが出来るからです。そうして、時には対立する相手を、排除することも起きてしまいます。そのような中で頭角を現したのが北条氏でした。鎌倉時代を通して、いくつもの御家人が打倒されていきます。
そして、なんと3代将軍であった源実朝が、甥の公暁に暗殺され、源氏の系統が絶えてしまうのです。さすがに将軍がいなければ、幕府は成り立ちません。北条氏は将軍になるだけの家格を備えてはいませんので、飾りとしての将軍を朝廷から招いて、権威のある人物を将軍としました。実際の政治は、北条氏を中心とする有力御家人による合議制でした。そして北条氏は執権という地位に立ち、合議制の主導権を握る形で権力を手にしていったのでした。そして、次第に勢力を拡大させる幕府に対して危機感を抱いていたのが、朝廷でした。日本は大和政権から始まり、天皇家の系統が最高権力者として、日本を統治していました。この体制が、今にも崩れようとしているのです。実際に中国では、王朝が後退することは珍しいことではありませんでした。それまで王として君臨していた人物が倒され、農民が皇帝になるということもありえない話ではないのです。
日本の朝廷はこの時点で少なくとも500年以上の長きにわたる政権として日本に君臨してきました。その歴史に裏打ちされた権威は本物であり、なかなか倒せるものではありませんが、当時の後鳥羽上皇は、現状に危機感を抱き、幕府に対して攻撃を仕掛けます。これが1221年の承久の乱です。3代将軍が暗殺され、混乱の渦中にある幕府を見て、全国の倒幕の号令をかけるのです。しかし、これに武士たちは応じませんでした。頼朝を征夷大将軍にして、幕府創立を許可したのは他ならぬ後鳥羽上皇その人でした。そして幕府は追討を受けるような大きな失態を犯したわけではなかったのです。多くの武士は軍事政権である幕府の存続を願いました。後鳥羽上皇はタイミングを見誤ったのです。結果、承久の乱は幕府軍の圧勝。後鳥羽上皇を含む三人の上皇が流罪となり、天皇も交代しました。これ以降、幕府は朝廷を飲み込み、勢力範囲を関東にとどまらず畿内・西国にまで及んでいきました。
そして、北条氏は初代時政・2代目義時に続き、泰時や時頼の時代にしっけんせいじの安定期に入っていくのです。この時代、北条氏は独裁色を強めることはなく、合議制を重んじ、ある程度の利害関係は考慮して、さらに幕府の仕組みや法整備を整えていきます。それについてはまた次回お話ししたいと思います。
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歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。