流れがわかる日本史⑬
本日は、承久の乱以降の鎌倉時代の様子をお話ししていきたいと思います。
承久の乱に勝利した幕府は、明かに朝廷より上に立ちます。当時天皇だった仲恭天皇を退位させるなど、皇位継承にも幕府が介入するようになったのです。もともと、関東の地方政権として誕生した鎌倉幕府はここで大いに飛躍するのです。そして、朝廷の権威を利用しながら、幕府は全国の統治政権として君臨していくこととなります。
しかし、そこに源頼朝以来の源氏将軍はいません。鎌倉幕府内部の政争に巻き込まれて、2代目も3代目も殺されてしまったのです。
その中で、台頭してきた有力御家人が北条氏でした。北条氏は源氏にとって変わり将軍となる道もあったかと思いますが、そうはしませんでした。それはなぜかというと、1000年以上続く、日本歴史のなかで、家格というものが形成され、この時代、天皇家、摂関家、将軍家という家柄がブランドとして生まれていました。そして、それになるには、それにふさわしい家柄でないといけないのでした。北条氏はそれ故に、将軍になることは諦めたのでした。
ちなみに、後に将軍となる足利尊氏はれっきとした源氏です。誰も文句は言いません。しかし、徳川幕府の創始者、徳川家康はその出自は定かではありませんでした。だからこそ、彼は、ある時「自分は源氏の血を引いている!」と系図を作ってまで、主張したのです。真偽の程はわかりませんが、そういう無茶をすることで彼は将軍としての資格を得たのでした。
さて、北条氏ですが、時政、義時と続いて、3代執権が泰時でした。北条氏は、将軍を支える執権というポストについて、実質は幕府を支配する体制を作っていきました。しかし、北条泰時やその次の代までは、独裁体制ではなく、合議制を重視し、会議の議長という立場をとり、他の有力御家人とも利害関係の調整を行なったので、大きな衝突はありませんでした。
少し話がそれますが、2022年の大河ドラマは三谷幸喜脚本、小栗旬主演で、「鎌倉殿の十三人」というものが始まります。この時代の北条氏が権力を掌握していくおはなしです。今から楽しみです。
さて、3代執権北条泰時は、御成敗式目を制定し、武士同士のトラブルを解決するための基準作ります。当時の武士は、農民出身で読み書きの出来ない者も多く、御成敗式目は、平易な文章で書かれ、判定の基準が、武士にとって当然とされている道理と呼ばれる常識に基づいていたので、彼らは納得してこの法律を受け入れました。
また、評定衆というものを設置し、有力御家人を登用することで、皆で話し合う体制を作りました。話し合うことで、利害関係をある程度調整し、不満を抱かせないようにしたのです。
その他、連署というものを設置し、執権を補佐することで、北条氏の執権・連署という体制が固まっていきました。
そして、その跡を継いで北条時頼・時宗と続いていきます。この時代は比較的平和な時代が続いていましたが、北条時宗の時代に、大事件が発生するのです。
それは、蒙古襲来でした。
ユーラシア大陸を席巻したモンゴル民族が日本に襲いかかってきたのです。この蒙古襲来の前と後では日本の様子は変わってきます。一般的に蒙古襲来以降、鎌倉幕府はその支配基盤をグラグラとさせていくことになります。
今回はここまでとします。次回は蒙古襲来からお話をしていきたいと思います。
本日もお読みいただきありがとうございました!
歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。