流れが分かる日本史⑰

本日は、室町時代後半から戦国時代について書いていきたいと思います。

室町時代は、庶民が台頭した時代でした。一人一人の「個人」が力をつけ、団結し、社会を動かすようになるのです。この変化の理由はなんでしょう。それは、人々の生活の質が向上し、豊かになった農民が、共同体の生活を守るために団結し、権利を主張するようになったからでした。

その結果、各地で一揆がおきます。要求が聞き入れられないときに人々は実力行使を行うのです。正長の土一揆や嘉吉の土一揆、そして山城の国一揆や加賀の一向一揆などが有名です。

そして、このような一揆が増加した背景には、幕府の統治能力の低下があげられます。将軍を中心としたリーダーシップを発揮できない状況が、このような一揆を生んだのでした。

6代将軍足利義教は、くじ引きで決まった将軍でした。それ故、義教は神威を味方につけ、「万人恐怖政治」を展開します。自分は神様の意思によって将軍になったのだから、皆、自分の言うことに従わなければならない、という理屈でした。しかし、それによって疑心暗鬼となった各地の守護大名の中で、播磨の赤松満祐が義教を暗殺します。将軍が殺されたのです。その後、8代将軍足利義政の時代に、京都を焼け野原にしてしまう応仁の乱が発生します。この戦乱は、将軍の跡継ぎ問題、幕府の主導権を巡る問題や、守護大名の家督争いなど、様々な対立が複雑に絡み合って引き起こされており、長期化してしましました。

この間、将軍権威は地に落ち、各守護大名は京都から領国に戻り、群雄割拠の戦国時代が到来します。

実力主義の時代となり、領土を拡張するために、次々と軍事侵攻を行います。その中で、台頭した戦国大名が織田信長でした。もともとは尾張(愛知県)の大名でしたが、駿河(静岡県)の大名今川義元を討ち取り、全国にその名を轟かせます。その後、領土を拡張させながら、対立する武田信玄や上杉謙信の病死という幸運にも恵まれ、天下統一目前でしたが、最後は家臣の謀反にあい自害しました。

謀反人明智光秀を討伐し、天下人に名乗りをあげたのが、同じく織田家中の豊臣秀吉でした。織田家の筆頭家老柴田勝家も討ち取り、織田家を飲み込むようなかなちで、豊臣家が天下の覇者となっていくのです。

徳川家康は小牧長久手の戦いで秀吉を苦しめましたが、和睦し、豊臣家の傘下に入ることを了承しました。

そして、その後中国地方、四国、九州、関東、東北と次々と各地の有力大名を降伏させ、1591年に天下統一となります。

豊臣秀吉は内政にも力を入れ、刀狩令や太閤検地、身分統制令などを行います。これらの政策によって、兵農分離が進み、身分の固定化が進みます。農民は検地帳に名前が記載され、土地が与えられ、生産者となり、また年貢の負担者となります。そして、武士は城下に集められて、政治や経済など官僚としての仕事を求められていきます。

そして、豊臣に代わり、新たな覇者として、より強力に国内支配を強め、戦乱のない平和な時代を到来させたのが徳川家康でした。

次から江戸時代に入っていきたいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いします。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。