【戦国】明智光秀(1582年没)
今年の大河ドラマ「麒麟」の主人公は明智光秀です。明智光秀は信長の家臣にして、1582年、中国攻めに向かう主君である信長を本能寺にて暗殺した人物として有名です。謀反者というイメージが強く、それも間違ってはいませんが、私は明智光秀という人物が嫌いではなく、ただ主君に背いた者という認識だけだと彼が浮かばれないと思いますので、彼の生涯や人となりを辿っていきたいと思います。
明智光秀は、清和源氏の流れを汲み、美濃(岐阜県)の出身と言われています。光秀の父は土岐氏に仕えるも、美濃国は斎藤道三が下克上をしたことにより、斎藤氏に仕えるようになるが、斎藤氏の内紛に巻き込まれて一族は離反を余儀なくされます。その後、光秀は越前国(福井県、石川県)の朝倉義景を頼り、10年ほど仕えました。そして、足利将軍家の13代将軍義輝は、家臣の松永久秀という男に暗殺され、義輝の弟義昭は、朝倉氏を頼り、一時的に避難していました。この時足利義昭は、自らを京都に届け、自らを征夷大将軍につけるよう画策してくれる戦国大名を探していました。朝倉氏はのらりくらりと、重い腰を上げずにいるところ、尾張の戦国大名織田信長を推挙したのが明智光秀でした。
この縁で、織田信長は足利義昭を京都に届け、征夷大将軍とするとともに、明智光秀は織田家との結びつきが生まれ、織田信長に仕えることになりました。この時、足利義昭と織田信長両方に仕える状況でしたが、金ヶ崎の戦いで殿(しんがり)といって撤退する際に敵の攻撃を防ぎながら仲間を逃すというとても危険な任務を全うし、足利義昭のもとを離れ、信長の直臣となるとともに筆頭家老柴田勝家や丹羽長秀、佐々成政など織田家の重臣達から信長の家臣一同として認められていきます。ちなみに、この時殿(しんがり)を担ったのは同じく織田家中で立場が微妙だった木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と信長と同盟関係になった三河大名松平家康(のちの徳川家康)でした。この三人が非常に危ない役目を全うし武人としても認められるようになったのです。
その後、比叡山焼討ちの陣頭指揮をとったり、石山本願寺との戦いで指揮をとり、1575年に惟任日向守の任官を受け、畿内方面軍の司令長官となりました。この頃から信長の光秀への信頼は絶大なものとなり、信長はオルガンティーノら宣教師と親しく付き合う中で、日本がいかに狭い島国であり、世界は無限の広がりを見せていることを知る。そして、信長は日本を平定した後は中国へ渡り、皇帝へ自らがなり、アジアを平定して世界へ進出するという野望を抱くようになります。そしてその時、日本が留守を預かる者として信長は明智光秀を指名していたと言われています。それほどまでに信長は光秀を信頼していたのでした。
しかし、光秀の願いは戦乱の時代を終われせ、平和な世の中を作ることであった。中国へ出兵とのことになれば、さらなる軍役を人々へ課すことになり、人々の負担は増える一方となる。明智光秀は、尊敬できる主君である織田信長を誰よりも愛していたし、尊敬していた。しかし、戦国の世を終わらせるためには信長を、主君を亡き者としなければならない。次代の王は、新進気鋭の羽柴秀吉が担ってくれるだろう。誰よしも民百姓の機微を理解し、人の輪を重んじる。あの男に…
そして、1582年、本能寺に宿泊中の織田信長を明智は急襲した。
前日、明智は連歌の会を催し、こんな歌を歌った。「ときは今、雨がしたしる 五月かな」
これは、土岐源氏のときをかけ、したしるは治しると書く、つまり我々が主君を倒し、天下を治める番だ、という歌である。
明智に仕える重臣たちはすぐに理解した。
そして、翌日。毛利征伐に向かうはずが、途中で行路を変える。
「敵は、本能寺にあり!」
だった。信長を倒した光秀は、その後すぐに山崎の戦いによって秀吉に討たれる。その全てが描いた絵図のように、つつがなく進んでいった。
そして、それから17年のときを経て、関ヶ原の戦いによって徳川の時代がやってくる。250年以上にわたる平和な時代である。150年以上も続いた戦国の世が終わったのであった。
明智光秀が果たした功績は大きいと言わなければならない。
歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。