流れがわかる日本史⑮
本日は、鎌倉時代の後期のお話をしていきたいと思います。
蒙古襲来後、執権は北条貞時でした。彼は、御家人の幕府への不信感が高まる時期に難しい舵取りを迫られました。そんな中、力を伸ばしていったのが、北条氏の家人たちでした。彼らを御内人(みうちびと)といいます。北条氏による専制体制が強まる中、北条氏は御家人の筆頭となり、それによって北条氏の家来が力を伸ばしたのです。そして、1285年には霜月騒動といって、有力御家人安達泰盛が、御内人の平頼綱に滅ぼされるという事件が発生します。
北条貞時は1297年に永仁の徳政令を出すなど、御家人の不満解消に努めましたが、実効性のある対策とはなり得ませんでした。3度目の蒙古襲来に備えるため度重なる負担を御家人に強いていたため、恩賞がなく、窮乏していっている御家人は不満を増幅させていきました。
そして、当時皇室も内部で混乱が起きていました。後嵯峨上皇以降、後深草の系統と亀山の系統が皇位継承を巡り対立を続けていたのです。
そして、両統はそれぞれ持明院統と大覚寺統を形成していきました。この両統が後に南朝と北朝に分かれていくことになります。
そして1317年、幕府が介入する形で皇位継承の決まりが定まります。これを文保の和談といいます。内容は両統から皇位継承を交互にすることと、皇位は10年まで、皇位継承の順番なども細かく決めて、翌年に後醍醐天皇が即位することが決まりました。
1318年に文保の和談により皇位継承した後醍醐天皇は、実際には持明院統を優遇する幕府にも反感を持ち、そして中継ぎ天皇であることに不満を持っていました。そして、後醍醐天皇は自ら政治を進めていくため、院政を停止し、新たな行政機関として記録所を再興しました。また、水面下で倒幕計画を着々と進めていったのです。
1324年と1331年に、正中の変と元弘の変という2度の倒幕計画が発覚しています。どちらも後醍醐天皇によるものでした。一度目は不問に付した幕府も2度目はお咎めなしとはいかず、後醍醐天皇を隠岐に流します。
しかし、このときは多くの武士は幕府ではなく、後醍醐天皇に味方をしました。かつて、幕府は後鳥羽上皇を流罪にしていますが、このときは多くの御家人が幕府の処遇を妥当と考えました。それだけ、幕府に統一政権としての信頼感があったということです。
今や幕府に対する怨嗟は日増しに増える状況です。人々は後醍醐天皇の姿に、現状を打開してくれるのではないかという期待を膨らませたのでした。元弘の変の後、各地で反幕府勢力が挙兵し、幕府に抵抗しました。
そして、1333年、足利尊氏が六波羅探題を攻略し、新田義貞が鎌倉を攻略し、最後の得宗北条高時は自害し、ここに鎌倉幕府が滅亡します。
その後、隠岐から凱旋した後醍醐天皇は光厳天皇を廃位し、新政を開始していきます。この政治を建武の新政と言います。しかし、この建武の新政は武士の不満を高めることとなり、わずか3年で崩壊してしまいます。後醍醐天皇の政治に武士が納得しなかったのです。そして、武士たちは新たな幕府の樹立を願うようになります。そして将軍にたる人物として白羽の矢が止まったのが足利尊氏でした。1335年、関東で中先代の乱が発生すると、足利尊氏が兵を率いて関東に下向します。そして中先代の乱を鎮圧すると、京都への帰洛を拒否し、建武の新政に反旗を翻すのでした。
ここから南北朝時代、室町幕府の成立という話につながっていきます。それはまた次回とさせて頂きます。
歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。