【古代】聖徳太子(574年〜622年)
聖徳太子は593年に推古天皇が即位すると、摂政として政治を後見する地位につきました。そして、大臣蘇我馬子とともに三位一体の改革に取り組んでいきます。官僚制への移行を図る冠位十二階の制定や、仏教・儒教の精神を導入した憲法17条、聖徳太子が帯刀していた剣は七星剣といって北斗七星がちりばめられている、つまり当時の道教の思想の影響が考えられます。さらにさらに、彼の別名は厩戸皇子、天皇(彼の父は用明天皇です。)の子が馬小屋の前で出生するとは考えにくいと推測するとこれはキリスト教の影響ではないだろうか。実は、当時中国経由で、ネストリウス派キリスト教(中国では景教)が一部日本に伝わっていました。
もし、聖徳太子がこれだけの学問体系を身に付けていたとしたらやはりスーパースターであり、「架空の存在説」があっても頷けることだと思います。しかし、聖徳太子はやはり実在していたと思います。彼は摂政に就任したのち、約10年は表立ったことをしていません。普通、重要な役職に就任したら功を焦ったり、早く結果を出したいと思うものですが、冠位十二階を発表したのは603年、聖徳太子の摂政就任10年後でした。
では、彼はその間何をしていたのか。おそらく、来る日も来る日も研究をしていたのだと思います。当時、東アジア情勢は激動していました。中国で統一王朝隋が建国され、高句麗がその征討の対象とされ、影響は東アジア全体に広がっていました。そんな緊迫した状況だからこそ、十分な研究が必要だったのでしょう。“倭を他に負けない強い国にする!”これが、聖徳太子に与えらえれた至上命題だったのです。ちなみに、分かっていることとしてはこの間、聖徳太子は全国行脚を行なっており、地方の実情をつぶさに視察していたようです。その過程で、愛媛県の道後温泉に入っている記録があります。
そして607年、聖徳太子は外交上の戦略的勝負に打って出ます。遣隋使の派遣です。かの有名な小野妹子に国書を携帯させ隋に送った使節です。この国書にはこう書いてあります。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」これを見て隋の皇帝煬帝は激怒します。
これは、日が没するとかが無礼というのではなく、日本の大王(推古天皇)が天子と自称していることに激怒したのです。当時、東アジアでは、中国皇帝のみ、天子であり、その周辺国の首長は天子の子分となり、その地の王に中国皇帝によって任命されるべきだ、という中華思想という考え方が一般的でした。「漢委奴国王」も「親魏倭王」も中国皇帝によって任命され、それによって国内統治をやりやすくしていたのでした。
しかし、聖徳太子が目指したものは、中国と対等な外交でした。日本は、中国皇帝の支配から外れ、独立国として中国と対等な地位を確立すべきだと、考えたのです。だからこそ、先ほどの国書が作られたのでした。そして、聖徳太子は、外交関係の悪化による隋の襲来はないと読んでいました。なぜなら、隋は高句麗征討に手こずり、兵の不満が拡大し、国内統治も揺らいでいるという情報を得ていたからでした。
聖徳太子の読み通り、隋の皇帝煬帝は、答礼使を倭に派遣します。裴世清です。これは、中国が日本の使節を正当なものとして認めた、引いては対等であることを認めたということです。(少し、言い過ぎてるかもしれません。)
残念ながら、推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子が相次いで亡くなり、その後蘇我氏による専制的政治の時代を迎えると、官僚制国家建設への道のりは停滞し、大化の改新以降まで待たねばならなくなります。しかし、聖徳太子の功績は大きいと言わざるを得ないと思います。ちなみに、聖徳太子はこれ以降天子と称することは一切ありませんでした。煬帝が激怒したと聞いて自粛したのではありません、この時代に天皇号が使われた記録があります。聖徳太子は天子(=天の子供)ではなく、天皇(=天の皇帝)を目指しました。つまり、対等以上の立場を目指すと啖呵を切ったのです笑
歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。