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私が架空地図を描く理由

架空地図(空想地図)とは

「架空地図」あるいは「空想地図」という趣味をご存じだろうか?

地図というと、皆さん社会の授業で使う地図帳や、GoogleMapを想像する人が多いだろうけど、あれらの地図は全てこの地球上に存在する場所を描いている。

しかし、世の地図好きにはそれだけでは飽き足らず、自ら実在しない場所の地図を描いてしまう人がいる。かくいう私もその1人である。

作者が高校時代に描いた地図(笹岡県初崎市)

架空地図を描き始めたきっかけ

私が架空地図を描き始めたのは小学4年生か5年生の頃だったと思う。

学校の図書室や本棚にあった那須正幹著の児童書「ズッコケ三人組シリーズ」を読んだことがきっかけである。本作は表紙を見開くと著者の出身地である広島市西区己斐地区をモデルとした町・稲穂県ミドリ市花山町の地図が紹介されている。

稲穂県ミドリ市花山町の地図

面白い物語を書いてみたいけれど、文章力はない。なら、地図から物語を得よう。旅行好きの祖父が収集した地図を見ながら、自分の住んでいた町をモデルに初めての架空地図を描いた。しかし、一時的なブームに終わり、しばらくすると描かなくなってしまった。

現存する私が描いた中で一番古い架空地図。後に、島川市と市名が名付けられた。
道の太さがいい加減ではあるが、郊外になるにつれ、区画が広まっていく様子が見て取れる。

中村市との出会い

小学6年生当時、マイブームは地理や歴史に関するネット上のサイトを漁ることであった。そこから、今と違う国境線を引かれた世界地図があったら…といった妄想をするようになった。例えば、大国が複数の国に分割されていたり、小国がまとまって大国になったり、といった具合に。

そうしたものネット上にないか、「架空の地図」などと検索していくうちに出会ったのが、今和泉 隆行さん(地理人さん)の描く空想地図・中村市(なごむるし)であった。探していたものは世界地図であったけど、架空都市の地図に出会ったとき、ビビッと来るものがあった。 

過去の自分と同じことを突き詰めてしていた人がいたのかと驚き、そして、架空の地名や架空のチェーン店、鉄道に住宅団地といった実物と見間違うほどのリアリティのある地図に興奮した。

人口約150万人が暮らす中村市。もちろん架空の都市である。
参考 空想都市へ行こう! – 地理人がいざなう、空想地図の世界へようこそ。 (chirijin.com)

城栄国との出会い

そして、同時に大きく影響を受けたのが想像地図の人さんが制作する想像地図・城栄国である。日本と同規模の架空国家の地図を制作するというスケールの大きさ、人生を懸けて創作に挑む姿勢に脱帽した。

城栄国の首都・南栄の周辺地図
参考 https://souzoumap.menhera.io/index.htm

全ての鉄道の駅名や高速道路のインターチェンジ名が設定されていて、架空言語まで制作しているという。

どうしてここまでしなければいけないのか。とても時間のかかる作業だろう。後で役に立つからとか、経済的な価値に換算できない、「何か」に動かされているのだろう。

私にも、同じような衝動、「何か」が眠っている気がした。

架空地図「旭国」

そうして、私は舞台となる架空の国家に「旭国」と命名して、地図の描画計画が始められた。国全土を1万分の1縮尺というのはとても時間がかかり、気が遠くなる。50万分の1であれば、時間はかかるが、数年あれば終わるだろう。

そう思いながら、数度の中断を挟みながら10年(2014~2024年)ほどかけて制作されたものが以下の「旭国全国地図」である。

50万分の1スケールで描かれた旭国全国地図

旭国は瑞球という惑星にある、双子のような大きい島によって構成された島国である。

西(左)側を西州(さいしゅう)、東(右)側を東州(とうしゅう)といい、日本の47都道府県より少し多い52の府県で構成されていて、全ての基礎自治体(日本でいう市町村)の名称・境界・人口が設定されている。

ちなみに、瑞球の世界地図もあり、プレートや気候や海流まで考えられている。

私はどうして架空地図を描き続けているのだろうか。私の中にある何が、そこまで私を掻き立てたのだろうか。

世界の可能性に光をあてること

結論からいうと、存在したかもしれない世界の可能性に光をあてることが可能だからではないだろうか。言い換えれば、世界が一つしかないことへの抵抗でもある。

架空地図を作るとき創作者の知識にある実在の地形や都市の要素を抽出して、混ぜ合わせて再構築する。こうすることで、リアリティのある実在しない地図を作る。

こうして作られた地図内の世界は、たまたま現実世界が一つしかなかったために、地形的・歴史的に現実世界から零れ落ち、実在できなかった世界である。

これが地図ではなく、音楽や絵画のような芸術であれば、実在と非実在に囚われることなく、自由に創作の羽を広げることが一般的であるし、創作の受け手もそれを受容することに慣れている。


しかし、地図は現実世界を縮小して映し出す鏡のような表現手段という特性が強調されて、どうしても存在しない地図を作ろうという気にさせにくいのだろう。

 ただ、一度その思い込みの鎖を解き放ってしまえば、架空地図は、絶対的な現実世界を相対化し、あったかもしれない自然・社会・人間の営みの可能性をそのまま表現する手段になりうる。舞台は日本でなくてもいいし、地球上のどこかである必要はない。

この舞台上で、正解や不正解に過度に囚われなくても良い自由さ、楽しさに陶酔したからこそ、私は架空地図を描き続けられたのだろう。

おわりに

ここまで、拙文ながら私にとっての架空地図観を述べてみたが、他の架空地図作者にとっては違う理由があるに違いない。

特に私の描く地図は、都市規模から国家・世界規模まであり、歴史設定の創作しているため、世界を創作することへ強く意識が向いている。

自分の創作(という言い方も大げさだけど)について文章化することはあまりないので、文字を起こすのには苦労したけど振り返る良い機会になったかな。




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