障害者への親切心は差別にもなる。

身近にいる人が障害者だったり、障害者手帳を見せられたとき、どう思いますか?
きっと大勢の人は、「親切にしなきゃ」とか「優しく接してあげなければ」と思うのでは?
でもね、実はその気持ちが障害者を傷つけていることもあるのだ。

こんな偉そうなことを言えるのは、私が生まれつきの障害者だからだ。
いろんな視線を見てきた。
同情や哀れみなんてザラ。

でも、そんなことよりも傷つくのは親切心の押し付けだ。
こちら側も分かるのだ。
本当の親切心と、とりつくろった親切心の違いは。

例えば、同じやんちゃな行動をしたとしても、障害者だと分かると途端に気遣いをし始める人って多い。
けれど、私が悪い時はちゃんと怒ってほしい。
障害者だからといって、なんでも甘く見たり、許すのは私は違うと思う。
少なくても、私はそれも一種の差別だと混じる。

障害者だから優しくしてあげないといけない。
力になってあげないといけない。
そんな気持ち、持って欲しくないのだ。
自分で出来ることはギリギリまで自分でしたいし、頼らずに生きていきたい。
少なくても、27年間ずっと障害者というレッテルで見られてきた私はそうだ。

特にこうした気持ちって、内臓的な疾患の方に多いのではないかと思ったりする。
私自身、心臓に爆弾を抱えている。
内臓的な疾患は目に見えないから、より扱いのさを感じることが多い。
そんな優しさは、嘘の優しさだ。

障害はデリケートな問題だ。
障害者の中には、私とは違ってちゃんと気遣われたいと思っている人もいると思う。
しかし、だからこそ、優しい差別をして欲しくないと思う私のようなやつもいることを訴えることが大切なのではないか。
デリケートな問題だからこそ、オブラートな優しさで包んでいるだけでは、見ないふりをしているだけだ。

こんなふうに偉そうなことを言っている私だが、数年前まで障害者手帳を使えなかった。
テーマパークや映画館で障害者手帳を見せると等級に合わせて、割引がされる。
私はもともとケチなほうで、財布の紐をあまり緩めないほうだ。
しかし、そんな私でも障害者手帳を使うことには抵抗感があった。

その理由は、まず親から障害者手帳を使うことは恥のように教えられてきたからだ。
障害をなるべく周りに悟られないように育てられてきたように思う。
けれど、今なら思える。
障害者手帳でサービスを受けることは、障害者だからこそ得られる、ひとつの権利なのだ。
それはひとりひとりに生きる権利が与えられているのと同じくらい、自然なものなのだ。

それなのに、権利を使ってはいけないかのように思わせる周りの人が多い気がする。
だからこそ、私は声を大にしていいたい。
障害者手帳を使って、人生を豊かにしていけるならいいじゃないかと。
障害というリスクを背負っているんだから、権利を味わう理由なら、十分にあるのだ と。

私が実際にそう思えたのは、身近な人の一言がきっかけだった。
障害者手帳を使うことにためらいがあった私に、その人は言ったのだ。
使わないともったいないよ!と。

その言葉を軽はずみだととる人も中にはいるだろう。
しかし、私にとってはそのくらいの軽さが心地よく感じた。
むしろ、それくらいの軽さで権利を主張してもいいんだなと思えたのだ。

オリンピックと同じようにパラリンピックを大々的にしていこうとか、障がい者という表記にしようとか、そんな意見を交わすことももちろん大切だ。
しかし、そんな大規模なことではなく、まずは障害者を持っている方が自然に障害者手帳を使える世の中になること、そして、障害者を優しい差別で見ないことが、私たちにできる最初の歩み寄りなのではないだろうか。
#障害者 #エッセイ #日記 #差別

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