美女と野獣から抜け出せない問題について。

最近の私の悩みは、美女と野獣から抜け出せなくて困っていることだ。

美女と野獣といえば、美しい女性と醜い野獣が恋に落ちる、王道なディズニー作品だ。

そんなディズニーアニメが実写化された。

もともと美女と野獣のアニメがディズニー作品の中で好きだった私(というより、美女と野獣にしか興味が持てなかった)は、友達と映画を見に行って衝撃を受けた。


まず、出だしの町の風景がアニメそのままなのだ。

好きなことをしているのに周りからは「変な子扱い」されるベル。

大好きな本の話に耳を傾けてくれる人は、誰もいない。

羊に本を見せながらストーリーを説明するけれど、羊は当然食べる目的でしか本に興味を持てない。

そうしてベルは人間とも動物とも心を通わすことができず、孤独を感じる。


対して、野獣は自分の外見の醜さを受け入れられない。

希望も持てず、自分にも人にも厳しくなる。

ルミエールやコグスワースといったお城のアンティークたちは、身近なようで身近ではない。

それは野獣の方が周りと距離を取ってしまっているからだ。

こうして2人は形は違えど、同じような孤独を抱えながら生きていた。


最初のうちは、きっと野獣にとってベルは利用できればよい存在だったのかもしれない。

晩餐に誘うにも、部屋を与える(アニメ版の話)のも自分を愛してほしいから、ベルに少しでも優しくするのだろう。

しかし、そんな建前だけの愛では人の心は動かない。

それが美女と野獣はうまく描かれているのだと思う。

だから、ベルは反発もするし、お城を出て自由を求めにいこうとする。

これは自分を愛してほしくてがんじがらめに束縛をしてしまう人と別れたがる光景に似ていると思う。


だが、やがて野獣は本当の愛に気づく。

自分が愛されなくても、愛したい という愛に。

だからベルを自由にする。

自分がいくら孤独でも寂しくても、相手の幸せと少しの幸せな思いでを糧に生きようとする。

この健気さがたまらなく好きだと私は思う。


愛してもらえるから、愛そうとする愛は、今の世の中にとても多い。

だからこそ、野獣のような献身的な愛が描かれたこの作品がウケているのではないかと思う。

ベルのような女性になりたいではなく、野獣のような人に出会いたいと映画後に思ってしまうのも、愛が足りない今の世の中ならではなのかもしれない。


映像の美しさはもちろん、このように細かな心理描写がされていることが今回の実写映画の一番だと思う。

野獣とベルの心情だけでなく、お城のアンティークたちの心も描かれているのも素晴らしい。

バラの花びらが落ち、人から物へどんどん近づいていく姿は涙を誘う。


近々私は、5回目の美女と野獣を見に、映画館に足を運ぶつもりだ。

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