タクシーで宗教を語る
タクシーの運転手に、宗教についてかなり突っ込んだ質問をされたことがある。2回ある。
一度目は自宅からシアトルタコマ国際空港へ向かう途中。もう一度は、たしか出張先のヒューストンの空港からホテルに向かう途中。
どちらもアフリカ系移民の運転手さんだった。
おそらく彼らは白人の客には決して同じような質問をしないと思う。アジア人のおばちゃんに、何がしかの連帯感か気安さを感じたのだろう。
「あなたの宗教はなにか」
というのが最初の質問だった。
シアトルもヒューストンも空港は中心部から離れたところにあるので、片道30分か40分の距離だ。
一人目の運転手さんは、わたしがキリスト教徒だと言うと、自分は最近キリスト教からモスリムに転向したと打ち明けた。
「だって、考えてもみてよ。人間の女性から神の子が生まれてくるってそんなことがあっていいと思う?」
と彼は言うのだった。マリア問題が彼にとっては信仰上いちばんの難問だったらしい。
モスリムに転向してまでも引き続きキリストの神性についてかなり悩んでいるようだったが、空港までの車内でキリストの神性について手早く議論をするほどの深い見識を当時のわたしは何ら持ち合わせていなかった。今だってぜんぜん持ち合わせていないが、「んーまあそうねぇ」くらいの曖昧な返事でお茶を濁してしまったのが心残りだった。もう少し心ある会話ができなかったのか、と、なぜかくやしかった。
ヒューストンの運転手さんに宗教を聞かれたのはその数年後。わたしが自分はキリスト教徒であり同時に仏教徒でもあると口をすべらすと、どうしてそんなことが可能なのか、と驚愕し、それは間違いだ、正しい教えはキリストを通してだけ得られるものだ、と、残りの車中でえんえんと説教された。
そんな立ちいった質問や話題を不快だと感じる人もいるだろうし、礼儀がないと思う人もいると思う。
でもわたしはどちらのときも、反省してしまった。自分の考えや信仰について、ある程度まとまった考えがとっさに出てこないのは、ちゃんとそれについて考えを深めていないからだ、ということに気づかされたからだ。
それからまた何年もたって、やっと信仰について書いてみようと思うようになった。自分に説明できないことは、人にも説明できないのだ、当たり前だけど。