ラウシェンバーグのブルーオーシャン
ずいぶん前だけど、サンフランシスコ近代美術館にロバート・ラウシェンバーグ展を観に行った。
ラウシェンバーグは1925年生まれ、2008年没。
第二次大戦中は徴兵されて海軍に所属、戦地には行かず米軍病院に勤務して、終戦後、「GIビル」(兵役を終えた人に支給される連邦政府の奨学金)でアートカレッジに行って美術を学んだ。
第二次大戦直後にGIビルで美大に通って芸術家になった人は意外に多い。
(日系部隊で戦ったハワイ日系人の中にも、戦後東海岸の美大を出てアーティストになった人が何人かいることを先日知ったばかり。)
1940年代後半に美術学校を卒業した野心的なアメリカ人アーティストが行くべき場所はただひとつだった。
芸術の中心地の座をパリから奪い取ったニューヨークだ。
当時のアートシーンでは「抽象表現主義」が時代の最先端で、ジャクソン・ポロックに代表される「アクション・ペインティング」がいちばんクールで注目されていた。
そのなかで他の人がやっていない、もっとクールでもっととんがった、もっと時代に呼応したものを造るのがアーティストの使命だった。
「描く人の内面生活を、絵筆のストロークを通して描き出そうという抽象表現主義に対し、ラウシェンバーグは、アートは私たちが毎日出会う膨大な情報を取り込み、反映するべきだと考えていた」と、展覧会の解説にあった。
ラウシェンバーグがニューヨークデビューしたばかりの1950年代はじめの作品は、アートで表現できることをあらゆる面からとらえなおそうとする実験精神あふれるものばかり。
車のタイヤにインクをつけて紙の上に走らせただけの作品。
新聞紙を貼り、その上に光沢のある真っ黒なエナメル塗料を塗りたくった作品。
別の画家の鉛筆画を消しゴムで消すことによって、「消した」という行動を作品化した作品。
石にひもをつけて釘にむすびつけた作品。
「うわーーー、こりゃー楽しかっただろうなあ」 というのが素直な感想だった。
毎日毎日、最先端の新しいアイデアを考えついては大真面目で取り組んでみる。
まだ誰も考えていないアートの手法、誰も表現していないもの、つまり未開拓のフロンティアがあった幸せな時代。
彼らの前にはブルーオーシャンがひろびろと広がっていた。
1950年代のニューヨークで生まれたそういう作品群は、時代に愛された。
彼はいちやくスターになっていく。ラウシェンバーグ、20代後半。
そして次にラウシェンバーグが編み出したのは、布、雑誌の切り抜き、日用品といった雑多なものをキャンバスに取り入れた「コンバイン」ペインティングという技。
当時、時代を席巻していた抽象表現主義は、「アクション・ペインティング」に代表されるような、勢いのあるストロークが特徴だった。
ラウシェンバーグの作品はその乱暴なまでの筆使いをそのまま取り入れて、それをまったく関係ないものと組み合わせる。
たとえば、自分が使っていたベッドの上半分に、むちゃくちゃにペンキをなすりつけたような作品「Bed」(1955)。
(MOMAのサイトよりお借りいたしました)
下半分は、どのアメリカの家庭でもおなじみのアイテムだった、パッチワークキルトのベッドカバー。 アップルパイと同じように、アメリカの古き良き正しいファミリーを象徴するアイテム。
ありふれていて平凡な、それまでのシステム・制度・しきたりを代表するようなアイテムだった。
日常生活を象徴するようなベッドカバーと、先進的な知的芸術であるはずのアクションペインティングを組み合わせる。アートにとっても、古き良き正しいファミリーの価値にとっても、それはある意味、冒涜的な挑戦だったのではないかと想像できる。
散歩の途中で買ったアンゴラ山羊の剥製に、拾ったタイヤを組み合わせ、それを抽象表現主義ふうの抽象画の上にのせた「Monogram(モノグラム)」(1955) 。
この「モノグラム」はラウシェンバーグの代表作の一つとされている。
この作品がニューヨークのアート界に与えた衝撃は、きっととてつもなく大きかったのだろう。
抽象表現主義は、宗教的といってもいいような厳粛さでアーティストの内面をキャンバスに叩きつける、そのおごそかな真面目さとパワーが身上だった。
ラウシェンバーグの「モノグラム」は、その真面目な抽象表現主義の上に、人をくったようなヤギの剥製をのせた。
しかも、タイヤをはいたヤギだ。
なめとんのかコラ!
と思ったアーティストも多かったことだろう。
でもラウシェンバーグはふざけていたわけではなく、これが世界を表現するあたらしい方法である、と大真面目にプレゼンテーションしてみせたのだ。
もはや自分の内面だけ語るのは古い。世界は偶然に出会ったヤギとかタイヤに語らせるべきであると。
パンクである。まだ世界はビートルズもローリング・ストーンズも知らなかった。
もちろんセックス・ピストルズも、ラップも知らなかった。
世の中が変わっていく予感があちこちに充満していたけれど、まだまだ決まりごとの多い世界だった。男は男らしく、女は女らしく。ホモセクシャルは暗いクロゼットの奥に隠れているしかない社会だった。
決まりごとがほころび、崩壊していく予感を、きっとアーティストや若者たちはギラギラした喜びを持って抱きしめていたことだろうと思う。
ラウシェンバーグはゲイでもあったが、まだおおっぴらにカミングアウトできる時代じゃなかった。同性愛者が犯罪者のように扱われる時代であった。
俺が既成の概念を壊してやる!しかもカッコよく!
という気概が、ラウシェンバーグの作品にはみなぎっている。
そして実際にカッコよい。その楽しげなところがとてもカッコ良いし、乱雑に塗りたくっただけのような黒い画面にも、ひもをくくりつけた石にも、ダンボールのつぎはぎで作った作品にも、美しい質感があり、統一感があり、完結性があり、見る人がつながることのできるオープンさがある。
なぜそうなるのかわからないけど、彼には美意識の魔法があった。
彼の作品は有名になり、親友兼ロマンチックな交際相手でもあったというジャスパー・ジョーンズと一緒に「ネオ・ダダイスト」と異名をとるグループの中の重要なアーティストになっていった。
たがいに関係ないものをむちゃくちゃにコラージュしたような雑多な画面は、1960年代にはじまったテレビの時代、日常生活に情報がどんどん氾濫していく時代を敏感に反映していた。
ラウシェンバーグたちのすぐあとに、ポップアートの時代がやってくる。
村上隆が以前に(これももう何年も前、オタクたちとバトルを繰り広げていたころ)ツイートで 、
「コンテンポラリーアートを「体感」とか言って、鑑賞者のあるがままで見ようとしている方。それじゃ絶対にわかりませんよ。文脈わからないと。さっき音楽のhiphopの世界との比較をしてみましたが、文脈を理解しているといないとでは見方、感じ方、考え方が全く違います。」
と言っていた。
アートの価値を云々語るならまずその前にコンテクストを勉強せよ、と。
それは、たしかに正論。
それは正論、ではあるけれども、コンテクストを知らない人にも「体感」として一定のインパクトがなければ、おそらくその作品はアートとして成立しないんじゃないかと思う。
20世紀のアートは、音楽と同じように、それまでのものを否定し乗り越えることで変わってきた。
でもそこにあるのは言葉による「理由」や「説明」だけではない。
優れた作品は、常に常に、重層的なもの。
積み重なった中には、たくさん情報がなければ理解できない部分もあるけれど、言語的な情報がなくてもつたわる部分もあるし、おそらくはそれが最も強い力だと思う。
ビジュアルや音の存在感、質感、迫力、それと周囲の世界、その時代との関係。
作品そのものが放つ世界観と美意識。あるいは同時代の美意識そのものへの挑戦。
アートの文脈を正確に知らなくても、言語で説明すべき意味を飛び越えて、不意にその切実さ、同時代性、迫力、主張が共有されることがある。それがアートの力だと私は思う。
もちろん、誤解もあるわけだけれど、言葉を尽くしても誤解はなくならないわけである。
そのアートがある程度の普遍性を持っているのならば、そのアートの挑戦しているコンテクストは、同じ時代に(あるいは少し後の時代に)生きる人間として、見る側にもある程度共有されているはずだ。
受け取る側ががっつりアートのコンテクストを知っているかどうかで受け取れる情報が大きく変わるのはもちろんだけど。(わたしもべつに美術の専門家でもコレクターでもなんでもないので愛好家としての視線でしか受け取れない)。
1950年代のニューヨークで生まれたラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズの作品には、すごく幸せな革命の幻想があると思う。
変わって行く時代への確信、なかなか変わらないものへのいらだち、切り開く者としての自分の力への確信。この後にやってきたポップアートの人たちに比べても、ずっと楽天的な感じがする。
シリアスなアートにまだ前人未踏の荒野、フロンティアがあった最後の時代の幸せなアーティストだったんじゃないかな、と、思ったのでした。
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