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あらためて、言葉って何だっけという話  (その1)

今年の春、ワシントン大学で言語学入門のクラスをとった。400名くらい収容の大教室で行われた新入生向けの基礎教養講座。週に2日、毎回とてもよく練られたとても面白い講義で、目からウロコなことがたくさんあった。

言語にかかわる業界で長年仕事をしているのに、これまで言語学の基本をちゃんと学んだことがなかったって、まったくうかつだったことよ、と思わされた。

元気なローラ教授に講座の最終日にお礼をいいに行ったついでにおすすめの本をきいてみると、イチオシはスティーブン・ピンカーの『The Language Instinct』だという。この本はたまたま前回帰国したときに訳書(『言語を生み出す本能』NHKブックス、椋田直子訳)が書店でふと目について買い、半分読みさしのまま書棚に放置してあったので、さっそく再読することにした。

読んでみるとなんと、ほとんどのトピックスが、講義で触れられていた内容と同じだった。(ちなみに講義で使った教科書はオハイオ大学出版局の『Language Files』第12版)。
言語学の中にもいろんな派があるのかもしれないが、ピンカーの書籍はメインストリームといっていいのだろう。この本は1994年刊行(翻訳書は1995年)で、もう20年以上前のものだが、いまでも現役として揺るぎない地位を築いているようだ(人工知能の言語についての記述は当然ながらかなり時代遅れだけど)。

言語学に詳しい方にはまったくもって基礎的な情報だと思うけど、わたしにとって面白かったところをほんのすこしだけかいつまんでご紹介いたします。

子どもは言葉をどのように獲得するかの問題:言語生得説

講義では、子どもが言語を獲得する方法について、学生たちは白紙の状態で質問された。

子どもは周囲の大人がしゃべる言葉を真似しながら覚えるのか?

両親に言葉を教わって、間違いを修正されながら覚えるのか?

それとも子どもには、鳥がだれにも教わらなくても歌を覚えるように、生得の言語力が備わっているのか?

半数以上の学生が「真似する」または「親から教わる」と答えた。

20世紀なかばまでの言語学でもこれが常識だったそうだ。でもそこにノーム・チョムスキーが唱えたのが、ヒトの脳にはあらかじめ「言語器官」的なものが備わっているという、生得説。

どの言語もものすごく複雑な文法ルールやきまりごとを持っているが、子どもは生後1年から2年くらいの間のほんの短い期間でその機微をするっと覚える。
しかも、世界のどの言語で育てられた赤ちゃんも、同じようなパターンを踏んで言語を覚える。

ざっくりいうと、チョムスキーの理論は、子どもはあらゆる言語に共通な「スーパールール」を生まれつき脳内に持っているから母国語を習得するときに文法の膨大で細かいルールをいちいち全部覚えなくて済むのだ、というもの。

もちろん決まった時期に一定のインプットは必要だ。
言語獲得には臨界期があって、それを過ぎてしまうと完全な言語獲得はできなくなるというのが、現在広く受け入れられている説。言語から隔絶されて育った数例の不幸な子どものその後の言語状況もそれを裏付ける。

少しのインプットがあると、それに刺激されて脳はあらかじめハードウェアに組み込まれていた機能によって、めきめきと文法を覚え、あっという間に一人前にしゃべり出すようになる。

ピンカーはその理論を裏付ける証拠のひとつとして、ピッカートンという学者の1970年代の研究を引き、少ない単語をつなぎあわせて意思の疎通をはかる、文法的な規則がほとんどない混合語である「ピジン」が、次の世代で「クレオール」に変わる例をあげている。

言葉のつぎはぎであるピジンを母語として育った子どもたちは、特に親の母語のインプットがなく、子どもたちだけの集団でまとめておかれた場合、立派な文法を持つクレオール言語を自然に編み出すのだという。

同じような現象が、手話を母語とする子どもたちの間でも見られる。1970年代にニカラグアではじめて聾学校が設立されたときに子どもたちの間に自然発生した手話の話が有名で、ピンカーの本にも引かれているし、講義でも紹介された。

学校でも家庭でも手話を教えられていなかったニカラグアの耳の聞こえない子どもたちは、聾学校に集められたときに自分たちの間で簡単な手話を編み出した。これは文法の備わっていない「ピジン」だった。でも、4歳か5歳からこのピジン手話に触れて育った子どもたちの間では、それは短期間のうちに文法を備え、より形式的で洗練された「クレオール」というべき言語に育っていった。言語学者たちはこの2つの手話を詳細に観察した結果、そのクレオール手話をピジン手話から派生した新しい言語として区別し、研究の対象にしているという。

文法というのは単にあとづけの人工的なしゃちこばった分類ルールだとおもっている人が多いのではないだろうか。わたしも長いこと、なんとなくぼんやりとそう思っていた。

でも文法というのは、どの言語のなかにも有機的にいきづいていて、その言語を内側から作り上げているものなのだった。

19世紀欧米のインテリ白人なら「下等な人種の下等な言葉」としてかえりみなかったに違いない労働者階級の言葉にも、南部黒人の方言にも、それぞれ独自のなめらかな文法ルールがある。

成り立ち方がきわめて異なっているようにみえる言語も、動詞や名詞からなるカタマリである「句構造」からなること、動詞と名詞があることなどをはじめ、基本的な構造を共有している。

「赤ん坊は言葉を獲得する以前にものの概念を持っている」とピンカーは言う。

うん、それはそうだろう、なにかが頭の中で起きていなければ、突然言葉というシステムが動くこともないはずだ。言葉が意識・思考のオペレーションシステムだとしたら、その下で動くシステムもきっといくつかあるに違いない。

言語学では言語獲得の現場を、乳幼児をつかって実験する。とはいっても脳みその一部を切り取ったりはできないので、そういう実験はきわめてアナログでまわりくどく、子どもの反応を、びっくりした表情やおしゃぶりを吸う回数といった観察可能な要素で判断する。

たとえば、赤ちゃんに言語以前の「ものの概念」があるかどうか、ということを実証するためには、赤ちゃんが見ているものが物理法則にさからったでたらめな動き方をするとびっくりするかどうか、ということを実験で確かめたという。

単語の範疇(それが動詞か、不加算名詞か、可算名詞かなど)が「どのように概念やものの種類と結びつくかを、幼児が実に緻密な手順で理解していくことが明らかになってきた」とピンカーは書いている(214)。

いや実に、緻密でまだるっこしい手段で、科学はちまちまと一歩一歩、世界の理解をかためていくことである。


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