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ロックダウンの3月

今年の3月は、たぶんあとから振り返っても、歴史の転換点になっているのではないかと思う。
「ロックダウン」中のシアトルから、このひと月を振り返ってみた。
かなり個人的な視点のロックダウンまでの日誌です。

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怒涛の3月

わたしは2月21日から息子が住んでいるボストンを訪ね、3月2日から4日までニューヨークに滞在して、3月5日にボストンからシアトルに戻ってきた。その間にもその直後にも毎日のように急な展開があって、世界がすっかり変わってしまった。

シアトルを出た2月の後半には、COVID-19は米国ではまだ対岸の火事だった。クルーズ船での感染が大きく報道されていて、シアトルの友人にも3月の日本行きを取りやめた人が何人かいた。この頃は中国、韓国、日本が感染の中心で、「アジアの病気」と見る人が多かったと思う。

日本で学校の全国休校要請、というのをきいて、ずいぶん急に思い切ったことをするな、と思っていた。

2月28日、ボストンにいる間に、シアトル郊外のカークランドの介護施設で27人の感染が確認され、突然シアトルが「米国におけるコロナウイルスの震央」と呼ばれだした。えーまじか、と思ったけれど、この時点でもこれほど急な展開で緊急事態になるとはまるで想像できなかった。

トランプ大統領はこの日、「コロナウイルスなんか、そのうち奇跡みたいに消えるんだ」と発言していた。たいしたことじゃないのにマスコミは過剰に騒ぎすぎだ、という認識だったのだ。不安を感じつつ、そう思っていた人が多かったのじゃないかと思う。

2月の末から3月はじめ、ボストンでもニューヨークでも、生活はごく普通だった。わたしはカフェや図書館で仕事をしたり、電車に乗って美術館に行ったりし、当たり前にレストランで食事をして、スーパーで買い物をした。マスクをするという発想はなく(東海岸に2週間滞在していた間、マスクをしている人を見かけたのはニューヨークで3回だけだった)、唯一、普段は使わないハンドサニタイザー(除菌ローション)のミニボトルを携帯用に買った。2月27日のことだった。あとで考えると、あのときもう数本くらいは買っておけばよかった。数日後にはもうどの店からも消毒用アルコールとサニタイザーが消えていた。

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3月2日に息子と二人で 長距離バスでニューヨークに向かった。格安なのに綺麗だし、運転手がものすごくアグレッシブな運転をするので前を見ると生きた心地がしなかった以外はきわめて快適で満足な交通機関だった。

冬の平日だったので街は観光シーズンほど混み合ってはいなかったけれど、どこも普通に人であふれ、タイムズスクエアにも観光客がいっぱいで「中国加油」という真っ赤なネオンサインが輝いていた。中国頑張れとか言ってる場合じゃなくなる…なんてことにならないといいけど、といっていたら、2週間後にそのとおりになってしまった。

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3月3日、ちょうどわたしがタイムズスクエアでのんきに写真を撮っていたとき、ニューヨーク市内で最初の感染者が確認された。

ニューヨークでも地下鉄に乗り、人混みを歩き、取引先の人に会って、友人が出演したオフ・ブロードウェイの舞台を観にいき、打ち上げでけっこう混んだバーにも行った。このすべてがリスク高めだな、とうっすら気にしてはいたのだが、正直、まだ東海岸にそれほどの危険があるとは考えていなかった。でもこの頃もうすでに市中にウイルスは蔓延していたのだ。まったく幸運なことに帰宅後2週間たっても症状は出なかったが、シアトルといいニューヨークといいわたしが行く先ざきでそのすぐあとから感染者数が激増して「感染の震央」化するので、心ない友人からは「あんたがばらまいてきたんじゃないの」といわれのない疑惑を投げかけられている。

ニューヨークで見かけたマスク着用の人物は3人ともアジア系の若い女性で、一人は乗用車でランチの宅配をしていた女性だったが、この人はマスクだけでなく肘までの手袋もしていた。たぶんこのときのニューヨークで一番COVID-19に対する危機意識の強い人だったに違いない。

とはいえ、イタリアをはじめとするヨーロッパの感染拡大と、シアトルで感染が広がっているニュースをみんながそろそろかなり気にしだしていて、薬局からサニタイザーや消毒用のあらゆるグッズが消えたのもこの頃。ニューヨークの薬局でサニタイザーを探したが、もうなかった。

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3月5日、ボストンからシアトルに帰る便は、半分以上が空席だった。空港もガラガラというほどではないけれどスッキリしていて、セキュリティもほぼ待ち時間なしだった。この頃にはほとんどの米国企業は海外出張を全面的に中止していたし、個人旅行も控える人が多くなっていた。
前の週からのイタリアでの患者爆増に世界中の人が目を疑い、ふるえあがっていた。

翌3月6日、ワシントン大学が全キャンパスを閉鎖してオンライン授業に移行。
3月8日にはワシントン州の感染者は137人になっていた。同日にイタリアが全土で移動制限を発布する。

このあたりで、シアトルのスーパーからもトイレットペーパーが消えた。

11日にはワシントン州の知事から250名以上の集会禁止令が発布され、シアトル市内の公立学校も12日から閉鎖された。
ホワイトハウスはヨーロッパからの渡航制限を発表した。

そんな中、11日は誕生日だったので、若干ためらいながら招待に応じて市内のレストランで食事をした。テーブルサイドでシーザーサラダを作ってくれたサーバーの人が愛想よくておしゃべりで、手早くサラダを作りながら能書きを並べるので、喋りながら作るな~!と心の中で叫んだものの口には出さず、楽しく食事をして帰宅した。

翌日にはホワイトハウスが非常事態宣言を出す。同時に、ブロードウェイの劇場がすべて閉鎖されるというニュースに衝撃を受けた。

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その週末はまだシアトルの街には普段より少ないながら人が出歩いていたし、カフェにも人がいて、アイスクリーム店にもいつもどおり行列ができていた。友人たちとその週末にホームパーティーの約束をしていたのだけど、話し合ってキャンセルし、完全おこもり生活にシフトしていった。

翌月曜日、16日にはふたたび知事命令が出て、バーやレストラン内での飲食が禁止になり、飲食店は大急ぎでテイクアウトのみの営業に切り替えることになった。同時に、床屋さんやネイルサロンなどの営業も禁止され、日常生活にも「ソーシャルディスタンス」(6フィート/約180センチの距離)をあけることが奨励された。

いつも行くベーカリーでは椅子がすっかり片づけられて、並んで待つあいだに「ソーシャルディスタンス」を保つために、床に1.5メートルおきにテープでマークが描かれていた。バリスタくんは一人のお客に対応したあと、いちいち手を洗って次の接客をしていた。

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スーパーはこのあとパニック買いで棚が一時期すっからかんになった店もあったが、週末にはもうずいぶん落ち着いてだいぶ在庫が戻っていた。

同じ日に米国では初めてサンフランシスコとシリコンバレーの街がロックダウンされた。19日にはカリフォルニア州全体、そして20日にはニューヨークも後を追う。

ワシントン州では23日の月曜日にインズリー知事が「stay home, stay healthy」令を発布した。

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その翌日、街に散歩に出てみると、テイクアウトの注文を受け付けるために店を開けているのはほんの数軒で、ほそぼそと営業を続けていた雑貨店、ブティック、バー、カフェなどはすべて閉店していた。まるでハリケーンが来るかのように、ガラスの上に板張りをしている店が多かった。

これは日本では見ない光景だと思う。シアトルは比較的治安の良い都市とはいえ、2週間店を閉め、しかも街がほぼゴーストタウン化するとなったら、落書き、破壊、さらに悪ければ略奪行為は想定内。板張りされた街並みはそれだけで荒んだ寒々として、ぞっとする光景だった。

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ひと気のなくなってガランとした通りを、パトカーがゆっくり巡回していた。

ロックダウンの日常

都市封鎖/ロックダウンといっても、アメリカの諸都市では現在イタリアで実施されているような市民の通行を完全に禁止する戒厳令的な措置にはなっていない。

呼び方もソフトだ。米国でいちばん最初にロックダウンを実施したサンフランシスコでは「shelter in place」という名称を使っていた。日本語では「屋内退避」とでもいうべきか。建物内にいないと危険、という印象を与える言葉だ。ミサイルかなにかが降ってくる気がする。

ニューヨークのクオモ州知事はこの名称に強く反対して、より柔らかな「PAUSE」(一時停止)という名称で知事令を出した。言葉が市民の心象にあたえる影響は大きい、という判断だ。「言葉は大切だ」とクオモ知事。うんうん、よくわかっていらっしゃる。

カリフォルニア州もこれにならい、 「stay-at-home」(自宅待機、と訳されていることが多い。要は「家にいてね」ということ)と名称を変更。さらに数日遅れて知事令をだしたワシントン州では「Stay Home, Stay Healthy」(家にいよう、健康でいよう)という、さらに柔らかな、室内健康器具のCMコピーみたいな名称を使っている。

呼び方は違っても、どの州や都市も中身はほとんど同じ。

一番大きいのは「nonessential (必要不可欠ではない)」事業所の閉鎖が命じられていることだろう。

ワシントン州で現在、何が「essential」で何がそうでないのか、というのは長いリストがある。

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病院や公衆衛生、公共設備のメンテナンス、食品流通、食品製造、農業、エネルギーや水道などのインフラ関連、病院関連の用品製造、交通、電信、金融などが、市民生活を守る上で必要不可欠な事業とされている。

面白いのは、酒屋は店内で食料品を一緒に扱っていない限り「必要不可欠」とは認められないけれど、マリファナの小売店で働く人は必要不可欠な働き手としてリストされていること。

すでにロックダウン開始前、集会が禁止されてみんなが外出を自粛しはじめてから、マリファナ店の売上はぐーんと伸び、関連会社の株価も上がっているという。自宅にこもっているならハッピーになりたいのは当然のこと。アルコールで酔っ払ってクダを巻き凶暴化する人はいても、マリファナで凶暴化する人はまずいないので、家の中にこもった人民をハッピーにしておくには大麻店を稼働させるのは良い政策なのである。州にとって大麻は大切な税収源だし。カリフォルニアも同様らしい。

必要不可欠でない事業を行う事業所の閉鎖については一目瞭然なので強制力があるが「とにかく集まらないように」という部分は、いまのところ市民の良識にゆだねられている。

必要不可欠と認められている仕事への通勤、病院や薬局への往復、食料品の買い出し、そして「ソーシャルディスタンス」を守る限り屋外で散歩やサイクリングをするのは認められている。自宅から何マイル以上離れて移動してはいけないという決まりはいまのところ出ていないので、ちょっと離れた公園や森にクルマで行ってサイクリングをしてくるというのも禁じられてはいない。

でもニューヨークなどでは特に若い人たちが気にせず集まってしまう例があとを絶たないので、もっと厳しい戒厳令式のロックダウンにするべきだ、という意見も出されている。この先感染が拡大し続ければ、許可証を持っていないと外出できないなんてことになるかもしれない。

実際、28日朝の時点でトランプは(州知事にまったく相談もなく)ニューヨークと隣接する州の「強制的隔離」を検討していると発表している(そのあと同日に「やっぱり必要ない」と打ち消した)。

シアトルでは近所を散歩していてすれ違うときも、お互いにずいぶん手前から道の反対側に移ったりして「ソーシャルディスタンス」を保つのが、あっという間に新しい日常になった。

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スーパーでも「人を見たらコロナと思え」とお互いに警戒しつつ、距離を保って買い物をしている。近所に住む友人たちとも、今月はまだ一度も会っていない。

バスも電車も本数を減らして走っているが、乗客の姿はほとんどない。

危機感は人によってさまざまで、2月の末から一歩も家の外に出ず、買い物もすべて宅配で済ませている人もいれば、ほとんど気にせず行動している人もいる。でも大多数の人は、イタリアの惨状と、マスクが足りない最前線で従事している医療スタッフからの緊迫した切実なメッセージを深刻に受け止めて、感染防止に努めている。それほど大きな混乱はなく、いまのところは騒乱も大きな反発もなく、みんなわりあいにのんびりしている。

シアトルの象徴、スペースニードルの上には「WE GOT THIS SEATTLE」というスローガンを白抜きにしたブルーの旗が掲げられた。シアトルの市長が選んだスローガンだそうで、「大丈夫、やったるでー」「みんなで乗り切るぜ」というようなニュアンス。

ワシントン州のロックダウンは当初2週間の予定だったが、「延長の可能性もある」と州知事が匂わせている。まだまだ先は長い。

いまはまだのんびりしているけれど、2週間後に市民の疲労とストレスがたまってきたら、空気が変わってくるかもしれない。

3月27日現在、ワシントン州内で確認された感染者は3723名。死者は175名になった。

先週1週間で、ワシントン州内で失業保険を申請した人は13万3,000人。その前週の約10倍だ。米国全体では1週間に290万人が失業保険を申請している。失業保険を申請できない人もいるはずだ。小規模な店や事業所のオーナー、契約労働者、フリーランスには何の保障もない。わたしもフリーランスなので、もろに影響をかぶる。

巨額の景気対策がきまったが、一人最高1200ドル程度の支給では絆創膏くらいにしかならないだろう。


あまりにも異常な光景に急激に慣れてしまったいま、SNSなどで日本の人がまだふつうにレストランで食事をしているのを見ると、えっ?まだそんな日常生活があったの?と思ってしまうのが、2020年3月末時点でのシアトルの生活感覚なのだ。





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