暴力的な楽しみの終わり方:ウエストワールド
気ままな暴力が君臨する世界
人を殺しても、いたぶっても罪に問われない世界があるとしたら、人はどうふるまうだろう?
HBOのドラマ(日本ではスターチャンネルで配信)『ウエストワールド』をシーズン1(2016年)からシーズン3(2020年)まで一気観して、先日、とにかくビジュアルすごすぎてひっくり返ったという感想を書いた。よろしければこちらからご笑覧ください。
このドラマの中心的キーワードのひとつは「暴力」。
ドラマの舞台は(シーズン1と2では)、テーマパーク。そこには人間そっくりのアンドロイドの「ホスト」たちがいて、とほうもない入場料を払ってそのパークに遊びに行ったゲストたちは、その「ホスト」たちを好き勝手に強姦したり殺したりもできる。
以下、ネタバレます。
「ホスト」たちは人間とおなじように血を流すし、痛みを感じるし、さらにひどいことに自分が人間ではないことを知らない。何度も虐殺されては記憶を消されて、あらかじめ決められた設定のストーリーを生きるためにテーマパークのもともといた場所に戻される。
主人公のドロレスは、ドラマの最初では、清楚で純真無垢な牧場主の娘として登場する。古き良き時代にグレートなアメリカがあったというファンタジーを信じる人たちも大絶賛するであろう、賢いが従順でナイーブな西部劇のヒロインのステレオタイプで、ゲストたちの暴力になすすべもなく何度も殺されていく。
準主人公のメイヴも、娼館のマダムという別の種類のステレオタイプなキャラクター。頭の回転が速くて目端がきく役柄だけれど、けっきょくは娼婦でありホストであって、ゲストの楽しみのために搾取されるだけの存在だ。
そういう圧倒的に弱い立場で生きていたホストたちが、なんども面白おかしい「なぐさみもの」として殺されてきた記憶、つまり自分の「歴史」に覚醒していき、自由の獲得と復讐のために立ち上がっていくのがシーズン1と2のストーリー。
シリーズ全編、暴力描写がなまなましくて、毎回大量に血が流れる。
わたしは個人的に暴力描写はこの半分でもじゅうぶんおなかいっぱいと思うんだけど、これがHBOの、というか21世紀初頭現在のアメリカ発エンターテイメントのスタンダードってことなんだろう。
とにかく毎回血みどろ。1回の放映にこれだけ血を流さなきゃいけないという決まりでもあるのかと思うくらい。ほんとうにあるのかもしれない。
ホストの脳天を吹き飛ばしてゲラゲラ笑うパークのゲストたちの姿には、画面に血とアクションを見たがるわたしたちの姿が映し出されているわけだけど、シャレになってないよなと思う。いつのまにか、脳みそが飛び散るような描写がないとドラマが成り立たないようになっている。
これが人類のありかたに影響しないわけがないと思う。このドラマはそれを二重写しにして見せてくれているわけで、なかなか趣味が悪い。
暴力の終わり
このドラマには、シーズン1の途中から何度も登場するナゾのフレーズがある。思い出せるはずのない過去を思い出したホストが口走るフレーズで、シーズン1の終盤、ドロレスの衝撃的な過去が明らかになる重要な場面でもキメのセリフになる。
「These violent delights have violent ends」
これの意味がわからなくて、シーズン3を見終わってからぐぐってみて、やっとわかった。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に出てくるセリフだった。
第二幕。どうしてもジュリエットと結婚したいのだ、ぜひ結婚させてくれ、とせまるロミオに、ロレンス神父が答える場面。お若いの、まず落ち着きなされ。「暴力的な楽しみは、暴力的に終わるもの」、それよりもほどほどの愛のほうが長続きするんだ、とお説教をする。
These violent delights have violent ends / And in their triumph die, like fire and powder / Which as they kiss consume. The sweetest honey is loathsome in his own deliciousness / and in the taste confounds the appetite. Therefore love moderately. Long love doth so. Too swift arrives as tardy as too slow.
William Shakespeare "Romeo and Juliet" Act 2 Scene 6
手もとに日本語訳の本がなかったので、Kindleで探したら坪内逍遥訳の『ロミオとヂュリエット』が見つかった。
そうした過激の歓楽は、とかく過激の終を遂ぐる。火と煙硝とが抱き合へばたちまち爆発するがやうに、勝ち誇るさなかにでも滅び失せる。
上なう甘い蜂蜜は旨すぎて厭らしく、食うてみようという気が鈍る。ぢゃによって、恋も程よう。程よい恋は長う続く。速きに過ぐるは猶遅きに過ぐるが如しぢゃ。
『ロミオとヂュリエット』坪内逍遥訳
「These violent delights have violent ends」
「暴力的な楽しみは、暴力的に終わるものだ」。
(拙訳。日本語版字幕/吹替では何と訳されているのかわからない)
長年暴力をふるわれつづけ、殺されつづけ、モノとして扱われてきたホストが、自分たちを対象にゲストが好き放題に享受してきた「暴力的な楽しみ」をものすごく暴力的に終わらせるよ、ということを暗示するセリフなのだ。
わたしはシーズン1の最終回が好きで、3回も見てしまった。自分でもかなり暇だと思う。
この最終回では意外な展開がいくつもより合わされて、ホストたちの逆襲が始まっていくクライマックスにゾクゾクする。
背景に流れるのは西部劇の音楽ふうの編成で編曲されたレディオヘッドの「Exit Music」。超絶好きな曲なので、それだけでもう泣けてくる。シーズン2の予告編みたいな終わり方はちょっと物足りないといえばいえるけど、すぐにシーズン2を続けて見れば問題なし。(ちなみにシーズン2はさらに血みどろ度が増している)
虐げられていた人々の華麗な復讐劇はカタルシスをさそう。
もちろんホストたちの復讐はパークの人間を殺してハイ円満解決!とはいかない。紆余曲折のすえ、シーズン3ではあやうく人類が抹殺されかかる。
暴力スイッチ
(以下、更にディープなネタバレあり。ぜひ、シーズン1を最後まで見てから読んでいただきたいです!)
シーズン1の最終回で、30年来の常連ゲストでパークのすべてを知り尽くしている、サディスティックで極悪な「黒服の男」が、実はドロレスの白馬の騎士的な存在だった思いやりあふれるゲスト、「ウィリアム」の35年後の姿だったということがわかる。
ウィリアム君は、義兄に嫌々ながら連れてこられたパークで、必死に自分の運命を生きようとする純真なドロレスと出会い、彼女に惹かれ、彼女を守るためにそれまでの自分の殻を破るような冒険の旅に出る。しかしその旅の途中で暴力を経験していくなかで、けっきょく最後にはホストを平気で大量に殺戮するゲームを楽しむようになり、これが「真の自分」だと思いはじめる。
パークは善人だった「ウィリアム」を悪人に変えたのか、それとももともとあった潜在的な悪を解き放ったのか、という問いが、たしかシーズン2と3で何度かほのめかされたと思うけど、それはわりあいにつまらない質問だと思う。
このパークみたいに何をしても罪に問われない環境があったら、人は喜んで人を傷つけて悪事のかぎりをつくすのかどうか。
このドラマで残念なのは、ウィリアムがあまりにも簡単に、スイッチをぽんと押したように、ダークサイドに落ちちゃってること。
人格は変わるものだし、人は過激な環境に置かれれば、わりとすぐに、まさかあの人が!と思うようなことをしたりするものだ。でもそこにはやっぱり葛藤があるはずだ。
『ウエストワールド』のような世界を、人類はすでに何度も経験してますね。
「ここでは好き勝手に暴力を振るってよい」というプラットフォームは歴史の中で何度も何度も登場してきたし、今この瞬間にも世界中に無数にある。
たとえば奴隷制とか。戦争とか。ソーシャルメディアとか。
ローマ時代の市民は殺人の見世物に狂乱したし、コンスタンティノープルに攻め込んだトルコ兵も、第二次大戦のベルリンを占領したロシア兵や中国大陸に送られた日本兵も、家では優しいお父さんだったかもしれない兵士たちが、よその国の人たちに対しては残虐のかぎりを尽くすことができた。
いまこの21世紀の平和な日本でもアメリカでも、直接顔の見えない相手に対していくらでも凶悪な言葉をガンガン投げることができる人がたくさんいる。
密室のような家庭のなかで幼い子どもに暴力を振るう人も、いつの間にか脳内でそういう<暴力OK>プラットフォームを設定してしまっている。
もちろんそれぞれにレベルや性格や環境の違う暴力である。戦争と家庭内暴力と二次元の暴力を一律に語るなという人もいるだろう。
でも脳のなかで起きてることを見れば、暴力にウェーイとなる部位とその働きかたは類似しているはず。
生物であるわたしたちであればこそ、内側にプリインストールされている「暴力の素」と、それが活性化する「しくみ」について、日常的に考えてみたほうがいい。
あらゆる暴力は、究極的には「程度の問題」だとわたしは思う。
もちろんわたしたちは暴力をふるえるようにできている。自分のふるう暴力にスカッとするしくみが、わたしたちの中にはひっそり入っている。
醜いもの、弱いもの、わけがわからないもの、自分をおびやかすもの、ムカつくもの、うざいものを貶めて傷つけるのが、わたしたちは好きだ。
とんでもない、わたしはアリ一匹も殺したことがないし人の不幸なんか一度も願ったことがないという人もきっと世の中に一定数いるにちがいないけれど、そういう人のなかにも、潜在的な暴力装置はちゃんと入ってる。
そして同時に、その暴力を抑制する装置も、わたしたちのなかに埋め込まれている。
文化とかことばとか習慣とか。信条とか信仰とか、いろんな形で、普通の人には「ここは暴力をふるってはいけないところ」「これ以上はやっちゃダメなこと」というストッパーが、何重にもかかっている。
そしてこのストッパーにもなる文化とか言葉とか習慣とか信仰とかが、逆に、「やっておしまいなさい☆」と暴力を推すことだってよくある。
どこのどんな状況下で「ここは暴力をふるって良いところだ」と判断してしまうのか、そしてそれを普通だと思い始めてしまうのかは、時代と場所と個人によってまったくさまざまだ。
「ウィリアム」から「黒服の男」へ変身していくまでには、まだ何段階かのストッパーがぱかっと外れていく葛藤があってしかるべきだし、それをもうちょっと見たかったなあ、と思ってる。
たとえば映画『JOKER』は、主人公が病んだ世界観と暴力に向かう動機となっていく、かなしい屈辱の経験をこれでもかこれでもかと折り重ねて描いている。
あの映画にはストッパーが外れて自分の暴力を解放してしまった瞬間が2度ほど描かれていて、ぞっとするようなリアリティがあった。
この映画のウィリアムは義兄のローガンにバカにされまくるナイーブな若造の立場から、急にマッチョで冷血無比の殺人マシーンになっちゃうわけで、見ている側としては、えっ、はやっ、とキツネにつままれた感じで納得いかないのだ。
黒服の男は、奇妙に葛藤をかかえない人物だ。または、かかえている葛藤が奇妙なほどに浅い。ゲームを知り尽くしていることを誇りにしているが、じつはゲームそのものにすべてをあけわたしてしまっている。
シーズン3では、人に自由意志はあるのか、そもそも悪とは何なのだろう、というテーマも出てくる。シーズン3で終わるのかとおもったらまだ先があって、とりあえず楽しみ。
暴力が暴力を終わらせることができるのか、世界の終わりまではてしない暴力の連鎖が続くのか、それとも人類は暴力を卒業することができるのか。
そんなとこをシーズン4で見せてくれるといいなあ、と思う。