百聞は一見にしかずの罠:『ウエストワールド』の夢と現実
HBOのシリーズ『ウエストワールド』を3シーズン全部一気に見てしまった。どんだけ暇なのかがよくわかろうというものである。
人間そっくりのアンドロイドが「ホスト」として生活する世界「ウエストワールド」が、お金持ち用のテーマパークとして運営されていて、ゲストはそのホストたちを好きなように虐待したり強姦したり殺戮したりすることが許されている、という、えげつない設定のお話です。
設定にはつっこみどころが満載なのだけど、キャラクターの素晴らしさ、演技の素晴らしさ(アンソニー・ホプキンス、エド・ハリス、エヴァン・レイチェル・ウッド、などなど、脇役にいたるまで全員がほんとに素晴らしい)、そしてなんといっても圧倒的なビジュアルの凄さで、あっけなく説得されてしまう。
いやほんとうに、映像がすばらしくキレイで説得力がありすぎるので、ところでこのアンドロイドどんな動力でうごいてるの?とかそういう疑問が浮かぶ前にとりあえず絵面でくみふせられてしまうのだった。
それで思ったのだけど、「百聞は一見にしかず」って、人の認知や思考は見たものの情報に圧倒されているんだ、ていう意味でもあるんじゃないの!!てこと。
百回聞いて頭の中で組み立てた情報と理論よりも、ぱっと一瞬だけでも目に入った映像のほうが情報が多いし、認知を圧倒する。
ゾウを見たことのない人が象について百とおりの説明を聞いて頭のなかに描いたイメージとコンセプトも、ほんもののゾウを間近で見る情報量は比較にならない。
ほんものの象と相まみえる体験には視覚以外の情報もたくさん入っているけれど、視覚以外の情報を全部削ぎ落とした画像だけでも、言葉をつかった説明では再現しえない体験をもたらす。
「脳に入ってくる情報の8割から9割は視覚から」とよくいわれているけど、これにはハッキリした科学的裏付けはないそうだ。でも、ヒトの脳の神経繊維のうち半分が視覚情報にかかわるものだという。それだけ見ても、少なくともほかのインプットよりは圧倒的なんだということがわかる。
だからこそ政治家は仕立てのいいスーツに赤いネクタイをして壇上に立つのだし、就活生はみんな似たような格好で「わたしはあなたが求めてる人物ですよ」ってことをアピールするのだし、広告制作の人たちは全精力を傾けて見た目の心地よさを作り込む。
これには二つの面がある。
ひとつには、単に「目で見る情報はとてつもなくボリュームが大きい」ということ。
そして二つ目は、私たちはついその視覚から得た情報をまるまる「真実」として、または「真実」をサポートする情報として受け取ってしまいがちだということ。
このドラマそのものが、「百聞は一見にしかず」は実はアテにならないこともあるよ、という危うさを描いているともいえる。
ドラマの冒頭では、ホストたちは自分が生きているのがテーマパークの架空の世界であり、自分たちの生活やが脚本家によって書かれたものだと知らない。それが徐々にホストたちにとってあきらかになっていくのが、シーズン1の中心テーマのひとつ。
(ホストたちがどうやって認知を獲得しているのかっていう点がものすごく曖昧にぼかされているのが最大のつっこみどころだけど、それはおいといて)
ホストたちは、何度も虐殺されてはパークの備品として回収され、修理され、記憶を消され、リセットされてまた同じ生活の同じ場面に戻される。
自分の生活だと思っている世界の外に、かれらが思ってもみない、理解のおよばない法則が支配する世界がある。
「現実だと思っていた夢から目覚めて、ほんとうの現実に目をひらく」
というのは映画『マトリックス』の描いたテーマだし、仏教とその流れをくむニューエイジ〜スピリチュアルの中心をなす「覚醒」のテーマでもある。
仏教の悟りやスピリチュアル的目覚めに限らず、認識が変わること(なにかを新しく理解すること)は多かれ少なかれ、「まったく新しい次元への目覚め」である、ということもできる。ちょっと大げさにいってみれば。
『マトリックス』でモーフィアスがネオに赤いピルを選択するか青いピルを選択するか、と迫るときのような大きな選択の場面は毎日そうそうあるわけじゃないけど、わたしたちの脳はもっと小さなレベルで、その種の選択を毎分毎秒絶えずやってるのだ。意識するしないにかかわらず。
「百聞は一見にしかず」でいちばん危険なのは、視覚情報をそのまま留保なしに受け取ってしまうことそのものよりも、受け取った視覚情報をどう解釈するかが自動運転になっていて、チェックが入っていないことなんだと思う。