読むということ
こんにちは。柚子瀬です。
少し前から読むということについて文章を書きたいと思っていたので思いつくままに書いてみます。頭の中だけで考えているよりも誰かに話したほうが考えがまとまることがあるように、思っていることを書いてみるとばらばらに散らばっていたものがまとまってくることがあるように思います。
私は、読むということにはさまざまなレベルがあると考えていて、たぶんそれはわざわざ言葉にしなくても感覚的に理解できるものだと思っています。いつからか意識せずともまいにち本を読むようになって、でもべつに普段本のほかいろんなものを読むという段には読むということはいったいどういうことなんだろうという問いが襲ってくることはありませんでした。私がその問いに出会ったのは大学4年生のころで、國分功一郎さんの『スピノザの方法』という本を読んでいたときのことです。
私は法学部に在籍していて、卒業論文が義務ではなかったのでその代わりに当時の自分の力で読めるかどうかわからない本に挑戦してみようということで『スピノザの方法』を購入し、読んでいました。そこではっきりとわかったのは「私はまったく読めてないな」ということでした。あのころからはけっこう時間が経っているから憶えていないこともあるけれど、今も本を読むなかで読めていないと思っている感覚はそれほど変わっていません。國分さんの圧倒的な読解を通じてみずからの力不足を痛感するとともに、読むということの規範を示してくれてました。このあとに岩波新書から國分さんのスピノザの本が出ましたが、その副題が「読む人の肖像」だったのにはどきりとしました。
言葉で説明されるよりも実践されている姿やかたちをみて皮膚で感じること。ひとは他者からの働きかけでは滅多に変わらないものなのかもしれないけれど、みずからの内部から湧き出る気づきに導かれて変わることはある。「ああ、私は読めてないんだな」と気づいただけでそれからなにか具体的に変わったかといわれるとそうでもないけど、普段読むさいにはそれでよくて。思えば、何度も読み返している作品はほんの少しは読めてるかもしれない。『スピノザの方法』は博士論文を基にした本で、実際に書いたことがないから想像するしかないけど博士論文を書くという段になったらそれはもう読むということにかんして血の滲むような努力をしなければならない。普段の読書ではそこまでみずからに要求したら息が詰まってしまうだろうけど、たとえば自分が大切に思う作品はきちんと読みたいと思う。