選挙の向こうに人類5000年の生を見る
選挙がたくさんありました。
日本の国政選挙、アメリカの大統領選挙、地方の知事選挙。
今回ほどたくさんのことを考えさせられた選挙はありませんでした。
選挙のことを考えていたら、いつの間にか人間という種族の5000年間くらいのことを考えていました。
そもそも、ギタリストでバンドマンの僕がどうしてこうして政治やら歴史やら世の中のことを書いているのでしょう。僕は世直しに立ち上がりたいわけでもなく活動家でもなく学者になりたいわけでもありませんし、ましてや政治家になりたいわけでもありません。僕は音楽や文学や映画や芸術が好きなだけです。好き、と言っても「好きな推しが〇〇」という話ではなく、それが自分の血肉になっていてそれによって生きているのです。
ミュージシャンやアーティスト、詩人、どう呼んでもいいのですが、そういう種類の人間は常に「普通じゃないこと」を感じ考え想像し、そこばかりを見ているような人間です。過激で異質なことばかりを想像しているのです。それを前衛とでも何とでも呼んでもいいのですが、そういう種類の人間は社会に必ずいる。「アーティスト」なんていうとおしゃれで華やかで今どきの言葉だとインフルエンサーとかトレンドをリードする存在、というのが一般的なイメージなのかもしれませんが、僕の中では「アーティスト」というのは常に人と違うことを考えていて、それゆえに社会のギリギリの縁のところで生きるしかない人間たち、というような存在です。その結果、反抗的・変わり者・反逆的だと思われてしまうような。日本では河原者なんて言われて蔑まされてきた。そうした世の中の周縁・辺境・前衛にいるような種類の人間もその社会の一部です。集団や社会や国が腐ることにとても敏感です。集団や社会や国が保守的になったり内向きになったり硬直化したり柔軟さを失う時、アーティストのような種類の人間は炭鉱のカナリアのように抹殺されたり、真っ先に切り捨てられたりするのです。全体を重んじるように圧縮されていく内向きの社会にとっては、普通じゃないことばかり考えている人間は邪魔でしかない。パンクやバンクシーやピカソを引き合いに出すまでもないですが、世の中の一番ヒリヒリしている部分を凝視し声をあげるのがアーティストという人間です。なので日本で「アーティストは社会や政治に対して発言をするな」という物言いがあることはとても奇妙だし、実際にアーティストが押し黙っている姿はさらに異常で不気味です。
今回のどの選挙もインパクトがありました。
何が真実で事実なのかを争い、山のように別の「事実」が溢れ全く折り合いがつかない世の中。確かめる方法はネットであり、自分が何を考えているのかとか自分の考えていることを疑うというような理性は邪魔。そんな忠告をする人間には黙れ!と怒る。
閉塞する人々。閉塞する人々をスルーする政治。怒り。閉塞はやがて破壊を求める。民主主義は民主主義ゆえに醜悪になるという定理がこれほど鮮やかに嫌というほど見せられると、チャーチルが「ほらね」とため息をついているのが見えるようです。
未来がない。No Future。
閉塞からくる怒りや鬱屈を表出するのがレイシズムや性差別や人種差別であってはならないのに、もはやそのタガは外れているのかのよう。
イデオロギーの対立などはもうなくなった。右だ左だ保守だリベラルだなんて議論をしている時代は終わった。何を事実としているか。本当かどうかは関係なく、何を事実と信じているか、だけ。政治と反政治。社会と反社会。ただただ「反」がある。反、反、反。その兆しは何年も前からあった。無差別のテロのような事件は何度も何度も起きていた。なんとかしてくれ、という呻き声はずっとあった。それでも社会は保たれていると人々は思い込むようにしていた。ところが。もう無理だということなのでしょう。
革命という名の虐殺。
正義という名の虐殺。
解放という名の虐殺。
どちらかわからなくなる混迷・混乱
駆りたてられる人々、根拠はネット。
これを地獄と呼ばずしてなんというか。
刻まれている歴史のページの記憶と記録。
それが転調して今、鳴り始める。
ポルポト、文化大革命というタイトル。
ナチやスターリンや世界大戦がリミックスされるのか。
自分に突きつけられているもの。
そんなカオスの中でもアーティストは作るだけ。
前衛や周縁に佇む僕らは抹殺されるのかも。
作品は残るか。焼かれるか。
音楽と反音楽。芸術と反芸術。
それでも作品は残ることは人類の歴史が証明している。
時代が変わる。もう戻らない。
僕らは進んだ先に希望を求めるだけ。それ以外に何がある?
選挙を見つめながら、そんなことを考えていました。