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アメリカへの想い

僕らはほんの数年でしたがアメリカで暮らしていました。
音楽のためにバンドでアメリカに渡り、アメリカで音楽を作りツアーをして生きていました。自分たちの力ではどうしようもない危機的なこともありましたが、僕らは幸運でした。たくさんの人たちに支えられ助けられました。音楽を通してたくさんの友人ができました。
コロナそのものはもう社会の中に組み込まれた病気として定着したのでしょうが、あのパンデミック日々から今日までの毎日は僕の中では全て繋がっています。僕らはパンデミックによってアメリカでの生活を中断し日本に戻ってきました。そしてパンデミック前からずっと進行していた世の中の変化、それは最初は小さな、しかし確実に起きていた波とうねりは、現在巨大な津波になって世界を覆っています。そしてまだまだそれは止まらずさらに巨大になるでしょう。

アメリカは激動の中にあります。世界も激変していくでしょう。
その状況の中で自分はどう生きるのかということを考えざるを得ない。
全ての人が考えている。考えたくもないと思っている人もいる。
僕にはアメリカの変化に正面から向き合いたいという必然性があります。

アメリカには友人がいます。音楽で繋がった友人、仲間たち、家族兄弟と言える人たち。そんな彼らは先日僕達に「今は来るべきではない」と伝えてきました。
それはとても悲しく、しかし愛に溢れたメッセージでした。
僕らにそんな言葉を伝えてきた友人たちの思いを想像すると胸が張り裂けそうになります。僕らが遠く離れた日本で見聞きするニュースや出来事の多くが、友人たちの心を強く圧迫し彼らは恐ろしい不安と怒りの中で毎日生きているのだということを改めて僕に強く感じさせました。彼らは移民でも外国人でもなくアメリカ市民なのに。切ない。とても切ない。しかし、そんな中でも自問自答しながら冷徹にニュースを見聞きし読み考えています。

アメリカはその持てる巨大な力を使ってその巨大な力そのもの、アメリカ自身そのものを変えようとしています。それを望む人と望まない人がいる中でも。歴史を変え、人を変えていこうとしている。その結果何が起きて何が起きないのか。この時代に自分が生きているということは、それをしっかり見るようにと僕は運命から言われているのでしょう。どの方向に変わっているのか。何が変わろうとしているのか。それは今は権力の意思に沿っての方法効果もしれないし、そうではないかもしれない。現在強力な者達が築く方向かもしれないし、その逆かもしれない。ヒントは歴史が知っています。歴史の流れの中では全ては必然かもしれません。

その巨大な変化の時、文学や芸術は強靭なパワーとなってそこに大きく作用すると僕は思っています。だから僕には不安はあっても絶望はない。暴力や命を失う恐れはあるけれど、音楽や芸術のパワーへの信頼に対しては全く疑いがない。全てを薙ぎ倒すような破滅的な変化や出来事が起こる事を想像したりもしますが、そんな時誰と共に生きるべきか、そんな時信頼できる人たちは誰なのかも明確にわかります。そういう友人がいる、それだけで十分です。不安はありますが恐怖はありません。そもそもどんな時だって生きるか死ぬかはただの運でしかない。生死の不安などは不安ではない。それは必然なのだから。信頼できる人がいない事の恐怖に比べたらどうという事はない。そういう友人たちが日本にもアメリカにも他の国にもいます。僕らは日々言葉を交わし合いながら互いに支え合っています。今、僕に必要なのは不安や恐怖に押しつぶされずに友人や芸術への信頼を持ち続ける事だと思っています。

世界の激変は、もっと考えろ、もっと学べ、もっと創れ、と僕に迫ってきます。目や耳を塞ぐときではない、と。全てを数値化して利益を最大限かき集めていこうとする人々が巨大なパワーを持って世の中を動かし続けるのだとしたら、それは間違いなくディストピアです。突然クラウドサービスが消滅する、なんてことも想像しています。言葉や情報を書き換えたり拡散するのが容易な時代にあって芸術や音楽のパワーを削ごうとする動きもこの先出るのかもなと思ったります。
アメリカで本が発禁にされたというニュースも見ました。衝撃でした。
本の発禁、それは焚書と同じです。
火のない焚書がこれからもさらに続くのでしょう。音楽やアートも焚書の対象にされる日も遠くないかもしれない。僕らのような音楽を創ろうとする人間たちがやがて一網打尽にされてしまうかもしれません。もし音楽と一緒に僕らも燃やされ消されてしまうことになった時、僕は何を思うのだろう?人並みに死の恐怖に震えながら、音楽が創れてよかった、音楽を愛する気持ちと感性を持った人生で本当によかった、と言いたい。ちょっと空想が飛躍しすぎました。かな?

僕らは歴史的な大きな分岐点にいる。単にアメリカ一国だけでなく。
「近代の終わり」とか「乱世」とかそういう時代の空気を表現する言葉が溢れています。その通りだと思いますが、そうした過去の歴史の激変期の時に普通の人々はどんな気持ちで生きていたのかという事については、学問ではあまり触れられる事はありません。それは文学や創作物や表現の中に刻まれているだけです。僕は今、激変期の人々の人生というものを自分がこうして体験体感していることに奇妙な興奮を感じることがあります。闘志のようなものかもしれません。歴史の節目に生きるというのはこういう事だったのか、と。最後まで見届けてやるんだ、と。

今日もアメリカの友人と言葉を交わしています。
友人たちが穏やかに暮らせることを祈り続けています。

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