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あり得ない日常#92
「私の代わりをありがとう。」
いえ、そんな代わりだなんて。
「寒くなるとよく燻製肉でシチューを作るのがうちの定番だったから、子供たちもすごく喜んでたんじゃないかな。」
へえ、そうだったんですね。
咲那さん料理上手だから、わたしじゃ務まらないですよ。
「そんなことないって。
あの人も嬉しそうだったじゃない。」
ええ?それならいいですけど。
「あはは、もう大丈夫そうだね。」
そんな、まだまだ一緒に居てもらわないと――
スーパーにたまたまあったチキンの燻製肉でシチューを作ったらとても美味しかった。
あれから社長が帰宅すると子供たちがわあっと駆け寄り、現場を自身で回るようになって疲れているはずなのに、そんなことを感じさせないところがさすがだ。
「扉から香りがしてたからまさかと思ったけど、嬉しいね。
ありがとう。」
そんなに喜んでもらえるとは思っていなかったから、良かった。
まさか社長の好物だったとは。
人とは不思議なもので、たった一回の印象的な出来事を意識せずとも繰り返し振り返ってしまう。
お肉も世界的な食糧事情から生肉はすっかり贅沢なものになり、とにかく高品質のまま日持ちする食品をいかに生産するかに注力する社会になったから、今では一般的な家庭料理だと思うが喜ばれると嬉しい。
しかし、本来咲那さんがいるべき場所にわたししかいないんじゃ、なんだか肩身が狭くて仕方がないですよ。
そう語りかけたところで、発した言葉は虚しく壁や天井に響き、自分の寝言だったと認識したのは、それで目が覚めたからだった。
いまだ一人暮らしの自室の天井が目にはいる。
薄暗くも鳥の囀りが聞こえるからおそらくは朝。
いつだったか、同じような目の覚め方をしたような気がするが、今回は嬉しい夢をみて心が満たされている気がする。
隣におじいさんと住んでいた由美さんは、藤沢さんと同棲するようになって引っ越していった。
時と共に身の回りの環境がずいぶん変わったなと外の景色を遮るカーテンを動かすと、遠くに見える山々がすっかり白くなっている。
最近の天気予報で何かと聞くようになったのは、空気中の水蒸気量が歴史的に高い水準に達しているらしい。
そのため、日本海側や北日本では氷点下30度に達しているという。
子供たちを思えば、学ぶにも他に手段が無いから学校に通うことが義務という時代から通信が発達した現代になって、手元の端末から知識に自由にアクセスできるから、命の危険を心配する必要は無い。
ちょっと早いけど、今日の仕事に向かうか。
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※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。