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あり得ない日常#35
おじいさんは人の弱さや社会の脆弱さと向き合ってきた。
わたしが敬う大きな理由はそこだ。
尊重だの人の気持ちを考えろだの、口先だけなら何とでも言えてしまう。多くは中身の無い卑しい人間の逃げ口上だろう。
おじいさんは、そんなことをわざわざ口にしない。
軽々しく言う人間を目にしたら、きっとおじいさんは怒るだろう。
なぜかって?
社会はそれらを前提に成り立っているからだ。
最低限のルールを守るからこそ、そう簡単に殺人事件も起きない。
食糧の奪い合いさえ起ることが無い。
刀の時代なら斬り合っていたかもしれないが、今はそんなこともない。
人間は知能の差こそあれど、最低限の理性を誰しも持っている。
その先の話をしていかないと、いつまでたっても入口に立ったままの愚かな集団のまま、それぞれ生涯を終えていくだろう。
「今日は誰か来るのかな」
いや特に何も無いようですね。
ふいに背後から尋ねられたので少しびくっとしてしまった。
「窓口には誰かいないといけないしねえ」
そうですねと答える。
じゃあいいやと課長はそのまま自分のデスクへと戻っていった。
この職業は何らかの形で、血を見ることが多い。
金曜日の午後の時間。
あと数時間もすれば今週は特に誰も来なかったことになる。
よかった。
誰かがやらなければならない仕事とはいえ、そろそろ担当から離れたいという気持ちが心の片隅にあるのを感じつつ十数年。
目の前にすっと小柄な女性が立っていた。
30代くらい。
この瞬間はやはりどうも好きになれない。
仕事、そして制度だから仕方がない。
心の中では同じ人間として説得したい気持ちでいっぱいになる。
これが誰もやりたがらない大きな理由の一つ。
若い頃に何にも考えずにうっかり受けてしまってから、すっかりこの担当専門になってしまった。
自分よりもひと回りは若く見えるその女性は、どこかで目にしたことがあるような気がしてならない。
周囲を見渡すが女性の同僚が見当たらない。
仕方が無い。
受付票をここで書いてもらう事にして、少し待つことにした。
女性は小さく返事をすると、カウンターの脇でひっそりと記入を始める。
必ずではないが防犯上、同性の職員が案内することになっているからだ。
受付票を受け取って名前を見ると、記憶がよみがえってきた。
あの時の子か。
もうあれから何年経つだろう。
この業務に就く前の新人時代に交番勤務をしていた頃の話だ。
暮れの寒い夜の公園でひとり、ベンチに座っていた女性を発見して声をかけ、そのまま保護したことがあった。
彼女は泣いているのかうつむいて途方に暮れているように見えた。
危ない上に何より寒い、普通でもない。
交番で保護するも、ストーブの前でまるで抜け殻のようだった。
すらっとした体型に顔立ちは整っているが、抱えているものが多そうでどこか近寄りがたい。
そんな雰囲気と名前が記憶を呼び起こさせた。
居ても立っても居られない気持ちになるが職務上、個人的な感情は抑えなければならない。
周囲に女性同僚はまだ帰ってこないようだ。
課長に窓口に人が来たことを伝えて対応することにした。
すべて状況は記録されることを頭に置いておかなくては。
説明室に向かう途中、かつて公園でこういう人を保護したことがあると世間話のように語り掛けると、うつむいていた彼女が顔をあげる。
「あの時のおまわりさんですか?」
やっぱりそうだった。
説明室に入ってからは、彼女があれから今までの簡単な事情を話してくれた。自分じゃなかったら、ここまで話してくれなかったかもしれない。
今日ほど非番じゃなくてよかったと思った日は無かった。
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※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。