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あり得ない日常#89

 今日は社長の奥さん、咲那さなさんの病室にいる。

 この辺りでも一番の高台に病院はあって、世界的な人類の衰退の中でも日本の首都に構える病院とあって、かなり大きい。

 月3万円を余計に支払うことで、日中は日当たりもよく、見晴らしのいい個室で穏やかに過ごすことが出来る。

 ベッドのわきにある小さなアンティーク調の椅子は、調子がいい時は咲那さんが座り、処置をするために看護師が使うこともあれば、もちろんお見舞いに来た人物が穏やかに会話をする助けにもなる。

 いよいよ人の助けを借りることが多くなってきたこともあって、出来れば自宅でという想いもあるが迷惑はかけたくないという本人の葛藤の末に、病院のベッドに身体を預けることになった。

 子供たちも、もちろん夫である社長も自宅に母親で妻でもある咲那さんの姿が無いのはさぞ寂しいだろう。

 人間というのはままならないものだ。

 そうは言っても、今こうなるまではやりたいことをやれて来たのだから、そのことは忘れてはならないし、不満を言うべきでもない。

 遅かれ早かれ、どんな形であれ、誰にでも訪れる時間だ。


 社長が新事業立ち上げるといった判断をしたのも、それらを会社にして信頼できる人間に任せるという判断をしたのも、出来るだけ今、限りなく自分の時間を作り出す狙いがあった。

 もちろん、その理由はただひとつ。いつまでこの世にとどまれるかわからない妻の咲那さんのためだ。

 もし、このことが無ければ生涯、ワンマンを通したかもしれない。

 人間一人だけではないと本気で気づかせてくれたのは、結局妻の咲那さんだったと、後に社長は語った。


 咲那さんがわたしの手を握って言う。

「あの人と子供たちをお願いできる?」

 どれだけの痛みなのか想像もできないが、これだけは言わせてと咲那さんの覚悟が伝わってくる。

 社長と咲那さんの家族の物語、それがパラパラ漫画に描かれていたとして、わたしはその途中で割り込んだいたずら書きのような存在のつもりだったのに、まさかそんな。

 咲那さんとの別れはいつかやってくるとわかっていた。

 だけど、それはあくまで友達の枠を超えて、さらには姉妹のような感覚でいたからこそ、その時が訪れる直前の貴重な時間にも関わらず、ベッド脇の小さな椅子に座っている、それだけのはずだったのに。

「気づかなかった?あの人はあなたが好きよ。」

 この様々な感情が含まれる言葉にどう反応したらいいかわからない。


 "コンコン"


「やあ、すっかり遅くなっちゃった。
具合はどうだい?」

 社長がひととおりやることを済ませてきて、咲那さんに会いに来た。

 わたしはすっと立ち上がって咲那さんに目配せをすると「また聞かせてね」そうぽつりとつぶやいた。

「ありがとう。」

 社長はわたしにそうお礼を言う。

 どんな顔をしていたらいいのかわからないのもあって、少し藤沢さんのところを見て来ますと言うと、「ああ、そうだね。頼んだよ。」と社長が承諾してくれた。

 扉を開けると、ちょうど看護師さんが同じく扉を開けようとしていたところだったようで、あっと会釈をする。

 本当は由美さんのところを、と言って咲那さんに言われたことをそのまま相談したい気持ちでいっぱいだったが、こればっかりはすべて含めて自分の心と向き合うべきだと思い直す。

 また、由美さんに相談したところでそう言われるだけだろう。

 そういった"お願い"をできるのもそれを"許せる"のも世界でたった一人、社長の奥さまである咲那さんだけだからだ。


 わたしは幸せだ。

 そう言える心の広さと囚われない考えを持った人たちと、こうして関わることが出来ているのだから。



※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体とは一切関係がありません。


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