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ムゥコーイの歴史

以前、Noteで書いたとある方にムゥコーイの歴史を聞いて、自分でも調べてみたことをまとめようと思います。

ムゥコーイの御先祖様「Nón Kỳ Binh」

ムゥコーイの先祖に当たる兵士用の帽子は「Nón Kỳ Binh」でした。
これは直訳すると「奇兵笠」という意味になります。
これは、ベトナムのアンナム地方のキン族がかぶっており、ノンラーのような見た目ですが、上にスパイクのようなものがついていました。

この「Nón Kỳ Binh」はフランス植民地後も使用され、第一次世界大戦ではアンナム兵が「Nón Kỳ Binh」をかぶり、ヨーロッパに渡りました。
この時の「Nón Kỳ Binh」は劣化防止のため、布のカバーかかけられてました。

1915年にマルセイユ港に到着するアンナム兵

しかし、「Nón Kỳ Binh」は戦闘用の帽子ではなく、行軍時や作業時に強い日差しから守るためででした。
戦闘ではフランスからヘルメットを支給され、それをかぶり戦いました。

フランスからやってきたサンヘルメット「Mũ cát」

フランスの植民地になり、フランスからサンヘルメットがやってきました。
これをベトナム人は「Mũ cát」または「Mũ Pháp」と呼んでいました。「Mũ」は「帽子」を、「cát」は「砂」や「砂丘」、「Pháp」は「フランス」を意味していました。
これは、サイゴンにいるベトナム国の国家警察が使用したほか、一般市民も使用していたため、ここでサンヘルメットをかぶる文化が根付いたといわれています。


サイゴンオペラハウス裏の警察署に集まるベトナム国の国家警察(1950年)
Mũ cátをかぶるシクローの運転手

Mũ cátはあのホーチミン主席もインドシナ戦争中から使用していました。
また、ホーチミン主席が自分のものをぼろぼろになってもずっと使う方だったため、兵士たちがのちに生まれるムウコーイをかぶるようになってもMũ cátをかぶっていました。
そのことから白いMũ cátはホーチミン主席の帽子としても親しまれていました。

Mũ cátをかぶるホーチミン主席
ホーチミン主席がかぶっていたMũ cát

インドシナ戦争の功労者「Mũ nam」

インドシナ戦争になると、兵士の数に対してMũ cátを用意できなくなり、生産性を上げるために蔓を編んで作ったヘルメットが登場します。これはMũ nanと呼ばれ、インドシナ戦争に参加した、ベトミンが使用していました。

Mũ nan

戦闘では上のような網のみをかけられているのではなく少しでも雨をしのげるように布や防水シートをかけられていました。

紙でできたヘルメット「Mũ cối 」

ベトナム戦争でおなじみの「Mũ cối」の原型はインドシナ戦争の終わりにひっそりと誕生しました。

1954年の写真。右側の兵士がMũ cốiをかぶっている
最初期のMũ cối

「Mũ cối」は「臼の帽子」という意味で調味料を潰す臼に似ているので名前をつけられました。

Mũ cốiは紙を圧縮して作られており、さらに布を貼り付けて防水性と強度をあげていました。これは現代のmũ cối の作り方と同じでした。

ちなみに臼砲の一種である迫撃砲もベトナム語で「 Súng cối 」と呼ばれています。

最初期のMũ cốiは今のムウコーイ近い「Mũ cát」よりもツバが短い形式になっていました。それはジャングル戦でツバが枝に当たらないようにするためでした。


ベトナム戦争初期のムゥコーイ「 mũ cối cụp」

ベトナム戦争初期の南ベトナム解放軍(俗に言う北ベトナム兵)が被っていたのが「Mũ cối cụp」というものでした。
この「 cụp 」は垂れ下がったという意味で従来のムゥコーイよりもツバの角が急になっていました。
これは南部での険しいジャングルを考慮したためでした。

ベトナム戦争中の遺品のMũ cối cụp

これは後に米軍にも鹵獲されて、特殊部隊の偽装用として同じようなムゥコーイが作られました。

米軍にコピーされたムゥコーイ

ちなみにオーストラリアのベトナム戦争映画の「デンジャークロース」のエンディングに実際にオーストラリア兵に撮られたMũ cối cụpが載っています。

しかし、この「Mũ cối cụp」はすぐに使われなくなくなりました。

理由は音がこもったり、何かしら戦闘に影響が出て不評だったという説が有力だそうです。


ベトナム戦争の裏の顔「mũ cối」

「Mũ cối cụp」が使われなくなっていったあと、現在のムゥコーイと同じような「mũ cối」が使われ始めました。しかし、戦場でmũ cối を使うのはあまり推奨されなかったそうです。
日本では「北ベトナム」と呼ばれている「南ベトナム解放軍」ですが、これは表向きに言うと「救国のために北から義勇軍に入った」部隊であり、本来は「北ベトナム」である「ベトナム人民軍」ではありません。

ここは混乱してしまうので割愛しますが「南ベトナム解放軍」の制式装備はムゥコーイではなくベトナム製のブッシュハットの「mũ tai bèo」でした。

Mũ tai bèo 

特に1969年の「南ベトナム共和国」の提唱以後はブッシュハットをかぶる兵士がさらに多くなり、ベトナム製のベトナム戦争映画の「草が灼ける匂い」でも意図的にムゥコーイから「mũ tai bèo」変えるシーンがありました。

しかし、1975年4月30日、南ベトナム解放軍は一斉にムゥコーイを被りサイゴンへ押し寄せました。
これはさまざまな説がありますが、南ベトナム解放軍によるベトナム戦争勝利は「ベトナム人民軍」の力なくては成し得なかったと世界に示したかったのもあった言われています。

1975年4月30日サイゴンにて

帰ってきたMũ cối cụp

こうして1975年にベトナム統一を成し遂げましたが、戦争とムゥコーイ歴史は続きます。
1978年12月にベトナムはカンボジアとベトナムをクメールルージュから救済するために、カンボジア派兵を行いました。その時の一部のカンボジア義勇軍(ベトナム人民軍)は「Mũ cối cụp」被っていました。

この「Mũ cối cụp」はベトナム戦争時のものと違い、プラスチックのあごひもでした。
そして、この「Mũ cối cụp」もすぐに使われなくなりました。

ここからは憶測ですが「Mũ cối cụp」が再び出てきた理由として、物資不足でベトナム戦争時から在庫があった「Mũ cối cụp」を改修して使用したと思われます。
そしてムゥコーイは現在の姿へ移り、現代まで受け継がれました。

そして、ムゥコーイはベトナム戦争の「北ベトナム(南ベトナム解放軍)」の象徴としてお土産物屋で売られるようになりました。

もちろん、軍の訓練生や兵士の作業帽とし使われています。

一部の店舗ではダッコン部隊や迷彩のお土産物ムゥコーイや中国製の強化プラスチックのムゥコーイも出てきておりますが、あくまでお土産物であり軍には使用されていません。


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