明日の命は
311の今日、告別式があった。
東日本大震災の日に、私は親友とお別れをした。
そして私は、311の時に感じたことを、改めてもう一度心に誓った。
「後回しにすることなく、今したいことをやっていく人生を歩く」のだと。
2011年3月11日の夕方のことを、きっと多くの人が覚えているだろう。
この国だけではなく、世界中の人があまりのことに言葉を失ったあの日。
あれからしばらく心が止まったみたいな日々が続いた。
被災された方の中に自分の知り合いがいたわけじゃない。なのに、まるで自分の大切な人たちを失ってしまったかのような喪失感でいっぱいになった。
それほどの破壊力と絶望感があった。
離婚して経済的に苦しくて、生きているのがしんどくなりはじめていた頃だから、なおさら簡単に立ち直れなくなっていった。
少し時間がたって、私はある思いを見出した。
人の運命は誰にもわからない。
たった今まで元気に笑っていた人たちが、一瞬で命の灯が消えてしまうことが現実に起きたのだから。
明日自分がどうなるのかなんて誰にもわからない。
私が明日も一日元気に過ごせる保証などひとつもない。
だから、「いつか」と後回しせずに、それがしたいと思うのなら、今ここでしていくような人生を送ろう。
それを指針に生きていこうと。
いつか行きたい場所リストが山のようにあった。
21歳で結婚してすぐに母となり、DVの夫とともに20年暮らす中で、5年ごとにこどもを3人生んだ。
どこかでずっと絶望を感じながら、何の根拠もないままにいつかもっとよくなると、問題に向き合う力もなく、ただ先送りしつづけながら生きていた日々。
ほぼワンオペで、なんなら経済的な柱も私だった。
育児・フルタイムの仕事・家事・夫の世話・町内会の仕事・学校の行事・サッカー少年団のお世話、などなど。
自分の時間などない。あっても自分のためには使わせてもらえない。
そんなことをする暇があるなら、これから押し入れの掃除でもしろと、胸ぐらをつかまれたまま、畳の上を引きずられたこともあった。
だからあの頃は、やりたいと思うことをする時間が実際になかった。
離婚して、シングルマザーとして、ほんとうにひとりで子どもを3人、大学まで出した。
末の娘はこの3月に卒業だから、終わったと言えるだろう。
ようやく私は、したいと思うことを今すぐ、できる環境を手に入れたと感じた。
なので娘が20歳になった頃から、私は飛行機に乗って、遠くへと旅に出はじめた。
やりたいことをすぐに実施しようと思っても、経済的に、時間的に、様々な制約があって、できないことも多かった。
「できるかできないかじゃなくて、どうやるかでしょ?」
成功者の口癖の本で見かけた言葉だけれど、まさにそう。
できないと諦めない。終わらない。
どうすれば実現できるのかの視点で考えて。叶えたいリストに優先順位をつけて、その中で今すぐできることを、上から順に実行していった。
2022年、12年ぶりに京都に旅行した。
伊丹空港に着くと、ほかの場所は寄らずに、一番最初に向かったのは、ずっと行きたかった雙ヶ岡古墳。
多くの人に、古墳??
ほかにも名所は山ほどあるのに?と驚かれたけれど。
歴史が好きで、京都が好きで。とくに秦氏のことが気になる私にとって、ここはもう聖地なのだ。
誰がなんていったって、どうでもいい。
私がやりたいこと。行きたい場所。食べたいもの。
それを、ひとつひとつ叶えていくのだ。
だから、リストに書かれた場所を、ひとつひとつ巡っていった。
もう一度行きたかった江の島。登ってみたいとずっと思っていた高尾山。
そして去年は念願の出雲にも行った。
物語を書きたいと思ったから、今まではあまり表に出すのが恥ずかしくてこっそり書いていたけれど、それを仕事にしたいと子どもの頃から思っていたのだと思い出し、書き始めた。
叶うかどうかじゃない。
実際に行動するかどうかだ。
結果はどうでもいい。
あれこれ考えて、結局やめてしまう癖や、いつかやろうと後回しにする癖は、もうやめよう。
311の時に味わった喪失感に近いものを、今回もまた感じていた。
だから、それを乗り越えるために、「生きている」ことを、もっと真剣に大切にしていかなくては、と思った。
明日もまた、普通の日々が続くとは限らない。
明日の命が保証されることなんてないのだ。
でも、とりあえず私は今、生きている。
だから、もっと与えられた命を、自分の人生を、ちゃんと全うしなくてはいけないのだ。
親友がそばにいてくれるような気がした。
だから、親友に恥じない生き方をしていきたいと思った。
昨日より、今朝より、きっと私は少し豊かになれた。より成長できた。
それはあなたに出会えたからだと、いつか再会した時に、胸を張って言えるように生きていこうと、そう思った。