【創作短編】光へと生まれ変わる~白石弁財天
『大河ドラマべらぼう』を見て、何年か前に書いたこの短編をこちらに掲載したくなりました^_^
以下本文です。
池の鯉が跳ねた音で目を覚ました。誰かの気配がしたので下を見ると、新緑の木々に覆われた階段をひとりの女性がゆっくりと、この池のある谷へと降りてくるのが見えた。
その人もきっと池に浮かぶ祠の女神様に、恋愛成就の願かけにやってきたのだろう。
私は池のそばの高い木の梢に腰掛けて、その人をぼんやり見た。
彼女が橋を渡り始めたとき、まるで私が見えているかのようにこの梢を見上げた。その時にあまりにもはっきりと目があったので、この人に私が見えるのだと思った。
そう考えた途端、それに答えるかのように、「はい。見えています」とその人が言った。
「ごめんない。私、見えてしまう人なんです」
なぜ謝るのだろうとぼんやり見つめ返すと、
「あなたはずっとそこにいるのですか? 」
と尋ねてきたが、私にその意味がわからない。
『ずっとここにいる』
わたしは『ずっと、ここに、いた』のだろうか。だとしたらいつからここにいたのだろうか。そもそも私はなぜ『ここにいる』のだろうか。
そう考えた途端に、突然目の前の木々の緑が消えて、吹雪いている寒そうな風景に変わった。
粗末な玄関の隙間から雪が吹き込んで寒いので、一つしかない狭い部屋の隅で、私は幼い弟や妹たちと体を寄せ合って座っていた。粗末な着物は袖も裾も短くて、腕の先や足首が出ていて余計に寒い。
冷たく冷えた土間の玄関で裸足のまま、母さんがしゃがみ込んで泣いている。父さんは泣いている母さんの隣に立ち「泣くことじゃないだろう」と上から怒鳴りつけている。
父さんと母さんの前に立っていた知らない男の人が口を開く。上質な着物を着ているが、それでも寒そうに左手で右腕を摩っている。
「その子はね、ここで暮らすよりずっといい暮らしができるんだよ。あったかくて美味いもんたくさん食えるし、綺麗な着物も着れるし、いい旦那さんにみそめられたら、夫婦になることもできるんだから。そしたらうんといい暮らしができるんだ。だからおかみさん、安心してくれや」
そう言われて母さんは、涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげて悲しそうな目で私を見た。
私はそんな母さんに頷いて見せる。
「私は行っていいと思っているよ。ここより楽な暮らしになるんだもの。むしろ私だけ申し訳なく思うくらいだよ。だから泣かないで母さん。私は大丈夫」
そうにっこり微笑むと、母さんはごめんよ、本当にごめんよとまた顔を覆って泣いてしまった。
そのあとすぐに私は家族と離れ、船と列車で遠い街まで来た。連れて行かれた先はおじさんの話していたいい場所なんかじゃなくて、故郷よりずっと寒い北の国だった。
そうだろうなとある程度は予想していたけれど、予想より遥かに酷くて辛い日々が待っていた。
美味しいものなんかもちろん食べられなかった。確かに少しは綺麗な着物を着ることができたし、寒さに凍えることはなくなったけれど、いいことがあるとしたらそれだけだ。
与えられた粗末な相部屋と,心が凍る仕事をする部屋の往復で、心も身体もどんどん蝕まれていった。
そしてある日私は、血を吐いて床に倒れてしまった。
それでも「人と会える場所」にいただけまだましだったと気付いた時はもう遅く、窓のない狭い部屋で碌に食事も与えられず寝たきりになった。
なぜまだ生きているのだろう。
目覚めて薄暗い部屋の天井を見ながら何度もそう思った。
そんなある朝目が覚めると、私の周りを真っ白な光が覆っているのが見えた。力もなく動けなかったはずの身体を、軽々とすいっと起こすことができた。
白い光の中で起き上がった私は、身の軽さに驚きつつ、ふらふらと外に出た。十歳で故郷をあとにしてから初めて建物の外に出たのだから、私は嬉しくなった。この北の地に来て見てみたい景色がたくさんあったのだ。
外は思っている以上に明るくて、人々も元気だった。見たこともない石の建物が並んでいて、石の道路を馬が走っている。何もかもが珍しく、ふらふらとあちこち彷徨っているうちに、強い光に誘われてこの池のほとりまで来てしまった。
その池の中には真っ白な着物を着た綺麗な女性が立っていた。
女神様だとすぐにわかった。
相部屋の誰かがこの近くの神社には女神様がいて、私たちを救ってくださると話していたから。きっと私を救ってくださる女神様のところへ来ることができたのだ。
女神様は私に何か話しかけてくれたけれど、その声は私の耳に聞こえなかった。ただパクパクと口を動かしていた女神様はやがてあきらめたように微笑んだ。
女神様の優しい微笑みが空気となって私を暖かく包んでくれたから、私はずっとここにいたいと思った。
そうだ。あの日から私はずっとここにいるのだ。
「そうだったんだ」
ふいにそんな声が聞こえ、私の目に再び新緑の景色が映る。
「ごめんなさい。私にもあなたの人生が見えてきてしまったの」
木の下に立つその人はそう謝ってきた。何故かわからないけれど、その人に見つめられると、心のどこかでほんの少し炎がともったみたいな明るさを感じた。よく見ると、その人の背後に女神様のような白い光が、ゆらゆら光って見えた。
「あなたの人生を見ていたら、私のひいおばあちゃんのことを思い出したの。ひいばあちゃんは、東北の貧しい家から北海道に渡って来て、苦労して若く死んじゃったの。東北の家では食べるものも着るものもろくになくて、生きているのが大変だったって」
その人が語るひいおばあちゃんの話は別に珍しくないものだった。私たちの故郷ではほとんどの人が貧しくて、寒さと飢えに苦しんでいた。
だから、毎朝目が覚めてしまったら今日も生きていかなくてはならない、そのために何かを食べなくてはいけないのに、何も食べるものがないと悲しくなる。そんな日々だった。
「そうなの? 」
その人は驚いたように目を大きくする。
「私のひいおばあちゃんの口癖は、だけど生まれてしまったから、生きるしかない。目が覚めてしまったら今日も生きるしかない、だったの」
それは私の母さんの口癖と同じだ。母さんは朝起きると自分を励ますように、もしくは諦めたようにいつもそう呟いていた。
みんな同じように苦しんで生きていたのだろう。
ふと見ると、その人の後ろの光が切なそうに揺れた。まるで私に何かを語りかけているみたいだった。
その人は私に向かい、祈るように手を合わせる。
「だからね、私はあなたには一日も早く成仏してほしい。ひいおばあちゃんにもそうなってほしいように、早く空に登って生まれ変わって今度こそ幸せになってほしい」
その子の言葉に私は驚いた。
『成仏? 』
まさか、私は死んでいるの?
そんなこと、考えたこともなかった。生きているのか死んでいるのか、そんなことどちらでも良かったから。
『空に登って』と言われた私は言葉のままに空を見上げた。
遠い昔、この場所に連れてこられる旅の途中で見上げた空と、同じ青い空だった。
ああ…、空が青い。
それに…お日様が光っている。
いったいどれくらい長い間お日様を見上げたことがなかったのだろう。
そう思った瞬間だった。私の体はどんどんお日様に向かって上昇しはじめる。どこまでもどこまでも昇る。
池も小さくなりやがてあの子の姿が見えなくなった。
どこまでも昇っていくと、やがて真っ白い世界に着いた。雲の中にいるのかと思った。綺麗な花がたくさん咲いていて、よい香りがした。
「お龍(たつ)」
そう呼ぶ声がした。それはとても懐かしい声だった。
ああ、そうだ。私の名前は龍だった。
「子どもらには、生まれ年をそのまま名前につけたんだ。そうしたら生まれた年のことは忘れないだろ。お龍に午兵に猪子」
父さんがそう言っていたっけ。その時に父さんはいつも笑っていた。父さんは普段はあまり笑わないのに。
声がした方を振り返ると母さんがそこに立っていた。母さんは、離れ離れになった日と同じ粗末な着物を着て、歳の頃も同じ姿のままだった。
「ごめんな、お龍。おいしいものをたらふく食わせてくれるって。きれいな着物を好きなだけ着せてくれるって。そんなの嘘だって、ほんとうは違うって母さん知っていたんだ。だから本当に…ごめんな」
母さんはまた顔をぐちゃぐちゃにして泣く。
「ここで私のことを待っていてくれたの? 」
私の問に答えず母さんはごめんなあと繰り返しただ泣いている。私は母さんのところに歩み寄り、その手を握った。
「母さん、ずっと待たせてごめんね」「お龍」
母さんが私を抱きしめてくれた。女神様が包んでくれた時よりも、ずっとずっと暖かくて柔らかだった。
「母さん、会いたかったよ」
そう声に出したら涙がどんどんあふれてきた。涙が頬を伝い、首から胸に落ちていく。涙が通ったあとにぬくもりが蘇る。
生まれ変わりたい。
今度こそちゃんと生きて幸せになりたい。
はじめてまた「生まれてきたい」とそう思えた。
「母さん」
体を離して泣いている母さんの顔をまっすぐ見る。
「もうここにいないで。そして母さんも早く生まれ変わってほしい。そして早くまた私を産んで」
母さんは驚いて目を見開いた。
「おまえを、また、産んでいいのかい」
震える声でそう答える。
「だって私はまたお母さんの子供に生まれたいから」
「お龍」
母さんに強く抱きしめられながら、ああ、そうだ。こんな風に誰かのぬくもりを感じたいとずっと思っていたなぁと、その胸で静かに泣いた。
白い光が輝きを増した。光る方を向くと、そこに美しい女神様がいた。池の上にいた女神様だ。
その光が私たち二人を包みこむ。不思議なことに外側の光だけではなく、私の心の奥から暖かい光が溢れてくるのを感じた。自分の体が溶けていき、光の中に消えていく。
やがて母の姿が見えなくなった。
そして光だけが世界の全てになり、私の意識も消えていく。
光の粒子の中に溶け込みながら幸せな気持ちでいっぱいになる。
遠くに暗闇が見えた。
でもそれは悲しい暗闇ではなく、どこか清々しくもある暗闇だった。その証拠に私は怖くなかった。
誰かの呼ぶ声がする。その声がする方に進んでいくと、暗闇の遥か彼方に小さな白い光が見えた。
その光に吸い込まれるように進むと、突然暗闇が渦になる。その渦はまるで竜巻のように私を巻き込み、どこか先の方へ引っ張っていく。
渦はどんどん狭くなった。少し苦しかったけれど、私はくじけなかった。あの先にもっと輝く場所があるとわかっていたから。
やがて遠くに見えていた小さな光は大きな光になり、とうとう光が世界の全てになった。
私はまぶしくて目を閉じた。
誰かが言った。
「やっと生まれてきたね。おめでとう」
あの時のあの人の声かもしれないと思った。そう思ったのに、それが誰だったのか、曖昧で思い出せずにいた。
「やっと会えたね」
優しくそうつぶやく母さんの声がして私は光の中で大声で泣いた。
【遊月より】あくまでもわたしの創作なので、この場所(札幌白石神社)がそのような場所であるということではありません。
ただ、かつてはススキノに、その後はこの神社から近い菊水のあたりに歓楽街が移動した歴史があります。
この神社の弁財天の社を見た時に、哀しい人生を生きた女性を救ってくれるエネルギーを感じたことから創作したものです。
ちなみに神社に来た女性は、猪子さんのひ孫の設定です^_^