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立つ位置で見えるものが変わるお話

皆様は歴史を習う時、まず石器時代などがあります。その後に人らしい文化として初めて登場したとされる「縄文時代」があった、とならいますよね。

縄文時代は一万年も続いた稀有な平和と平等が実現していた世界。
故郷の小樽にはストーンサークルや、国内でも珍しい縄文人が描いた壁画が残っており、遠足で初めてストーンサークルの山に登って以来、小学生の頃から強い関心を持っています。
最近は世界遺産になったこともあり、土偶女子なんて人たちも登場しているようで。

でも知っていますか?
この「縄文時代」のことを人々が「知る」のは、明治時代なのです。
1877年に、アメリカ人の動物学者モースが東京にある大森貝塚を発見して、初めて「縄文」という文化的な何かがあったのでは?
何これ?となって、それから縄文時代の概念が生まれたのです。

一万年も続いて、たくさんの物を今に残しているのに、つい最近までその存在を誰も知らなかった。

昔の人にしたら、土をこねくり回して土器や土人形(土偶)をつくって、大きな石を並べて祈ったらなんだりしていた大昔の人のことなんて興味なかったとは思うけれど。

それでも、存在も概念も、誰も知らなかったのかぁー、となります。

それに、天照が洞窟に隠れたお話やスサノオの八岐大蛇退治の話などで知られる古事記ですが、こちらも江戸時代の途中まで、人々は中身をよく知らなかったとされます。

江戸時代(1764年)に、本居宣長がその解説本を書くまで、「万葉文字」という特殊な言葉で書いてあったので、読みたくても誰も読めなかったそうなのです。

なんとなく、現代人よりは昔の人たちの方が神話に詳しそうなイメージがあったのですが。
え?
そもそも江戸時代まで古事記を誰も読めなかった?
え?え?
ってなりました(笑)

宣長さん、医者なのにめっちゃ研究してくれてありがとう!

今の私たちから見たら「源氏物語」も「徒然草」も同じように昔の本だけれど、源氏物語は1008年頃に書かれていて、徒然草はそれから330年もあとの1330年頃に書かれている。

鎌倉時代の吉田兼好(徒然草作者)からしたら、平安時代の紫式部は、めっちゃ昔の人なんです。

なのに、今ここにいる私たちは、ザックリ「同じ古い本」としてカテゴライズしちゃう。

つまり言いたいことは、立っている場所によって見えるものは違っていることに「気づく」こと、かな。
どっちも昔の本だけど、それは現代の地点から見たら、であって、立つ位置を鎌倉時代に変えたら、片方は最新のヒット作で、片方だけが古典となる。

あとら300年もしたら、
「転生したら何になるって?
ていうか何それ、古典っぽいー」
となるかもです。

例えば京都や奈良などのお寺には幾重にも歴史があり重なっていますよね。
天智天皇が飛鳥に寺を作るために石を切り出し、紫式部が源氏物語を書き、淀君が寄付をして作り直させ、松尾芭蕉が俳句を詠んだ石山寺(滋賀県)とか。

松尾芭蕉が振り返って,ここに紫式部がいたのか、と感動したかもしれない。
でもこれらすべて、ここから見れば「昔の出来事」となる。

でも、そんなふうに時間が折り重なり積み上がっていく、歴史の重みに浪漫を感じるのです。

例えば場所によって違う模様が描かれた長い帯を、20センチくらいの幅で折り重ねていくイメージ。

実は一本の帯ですから、途切れることなくずっと続いているのに、重なっている上からみると、下にあるはずの模様は見えない。
でも、そこに確実にあるんです。

目に見えない霊的なものを探す話ではなく、歴史を紐解けば模様は見えてくる。

その時に、特殊な経験をした誰かが実際にそこにいて、
「2度とこんなことは起きないで欲しい」
と思っていたり、
「こんな素晴らしいことが未来永劫続きますように」
と祈っていたりするかもしれない。

歴史が大好きなのは、そんな人の思いがそこに必ず存在しているから。
豊かな国を作りたい。
平和な国を作りたい。
一族をずっと繁栄させたい。

そんな大きな望みじゃなくても、

いつか平和になってほしい。
自由に行きたいところに行ける未来になってほしい。
文字を学んで広い世界を知りたかった。
自分のような惨めな思いを未来の子供達にしてほしくない。

そんなささやかな願いもたくさんあったはず。

その場所に立ち、表面に見えている物だけではなく、幾重にも折り重なった人の思いや願いを感じ取って、後世に伝えて行けたらいいな、と思うのです。

まあ、歴史オタクが蘊蓄を語りたいだけなのも否めないですけど(笑)

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