愛ゆえ
「自分らしく生きた方がいいよ」
こんな言葉をよく耳にするようになった。この言葉の中には、自分の好きなファッションをして、素直に自分のセクシュアリティをさらけ出せて、好きなものを好きって言えるようになるといいね、、みたいな意味が含まれていると思っていた。
私は口下手で、思ったことをうまく言葉にして伝えるのが得意ではない。特に慣れていない人と話すときには自分の殻を破るのに他の人より時間がかかってしまう。他人の目も気になるし、自分をさらけ出して、本当の自分を悪く言われたり、受け入れてもらえないのも嫌だ。私の世界は常にそんな私のわがままで回っている。「言いたいことはっきり言いなよ」とか「いま猫かぶってるでしょ」とか言われることもある。でも私は私が大事だからこうやって自分を守っていくしかないわけで、これを「自分らしく生きていない」だとか言われるのは心外だ。
例えば、ファッションに関しても同じことが言えると思う。「他人の目が気になって、着たい洋服が着れない」こんな悩みを持ったことがある人も多いと思う。私も何度も思ったことがある。10代の頃の私は、他人の目が気になって自分のしたいことができないなんてなんてつまらない人生なんだろうと思っていた。「気にすることないよ」って言ってあげたいけれど、いくら他人にそう言われたって気になっちゃうんだよね。20歳になった今も何も変わらないからよくわかるよ。
でも、最近しっかり自分と向き合えるようになってきて気がついたことがある。「着たい服が着られない」というのもまた、愛ゆえなのではないかということだ。なぜ着たい服を着れないのか考えたときに、それはその服を着たことによって壊れてしまう、これまで作ってきた自分の印象や、家族や友人との関係性、コミュニティの雰囲気に対する「愛」がしっかり存在しているからなのだと思う。他人の目を気にせず自分の好きを貫いている人が、毎日好きなお洋服を選ぶように、あなたは毎日好きな服を着ないことを選んでいて、そこにある二つの「らしさ」に相違はないのだと思う。好きな服を着ることよりも大切なことが確かにあって、そっちを選んでいるだけなのだから。
結局、「らしく生きる」というのは自分の選択した大切なものを守っていく揺るがない意志を持つことなのだと思う。仕事や、今やっていることが、自分の好きなことじゃなかったとしても、誰かのためや何かのために頑張っている人はたくさんいて、その人もまた大切にしたいものを自分で選択してその人の人生を生きている。
好きなものを好きって言えても、言えなくても、素の自分を見せても、見せられなくても、その裏にはその人の大切にしたい何かがあって、宝石のように、頑丈な箱にしまって鍵をかけている。大事に大事に守っている。輝き方も色も形も人それぞれ違うけれど、そこには手入れの跡が見えて、確かな愛があって。それを汲み取って「素敵だね、それがあなただよね」って言ってあげられる心を持っていたい。
あなたの守っているものが、今日も傷つきませんように。