今を生きる音楽

人は「今」でないことに敏感である。言葉においても、音楽においても。昔インタビューについて教えてくれた人が、「つる植物の先みたいに、その人が伸びていく方向の、一番新しいところを意識するといい」と教えてくれた。発する言葉の中にも生命力の強弱のようなものは確かにあって、過去の話をしていたとしても、その人が今初めて抱いた感情から生まれた言葉は、確かに光を帯びる。


今週のサントリーホールのバレンボイムの講演は、久しぶりの海外ピアニストの来日で、クラシック音楽が好きな人たちの中で大変話題になったようだ。プログラムミスも含め、あれだけ話題になれば興行的には成功だろう。私は行けなかったが、プロの音楽ライターさんがちらっとだが中身の濃い感想を教えてくれた。良くも悪くも、挑戦的な演奏だったみたいだ。
海外アーティストの講演が日常だったのが遠い昔のようだが、私は2012年に川口りりあホールで聞いたツィメルマンの演奏を思い出していた。オールドビュッシーのプログラムの予定が、ドビュッシーは前半のみになり、後半はシマノフスキとショパンのソナタになった。開演が30分遅れ、客はずっと外で待たされた挙句、よく分からない長々としたアナウンスが入る等、何にせよ万全のコンディションではなかったようだった。


前半のドビュッシーは素晴らしかったが、ショパンは安牌を持ってきただけだな、ということがよく分かった。本人の今の興味がそこにないし、昔似合った服を持ち出してきたような感じだ。こういう時、往往にして大衆受けがいいからなのか若い頃コンクール用に弾きこんだからなのか、多くのピアニストがショパンの大曲を持ってくる傾向がある気がするのだが、技術には間違いなくても、弾き手の「今」から外れたものは、聴いている方には、生きている感じが薄れる。


金曜のバレンボイムのプログラムは、ベートーヴェンが32曲作ったソナタのうち最後の3曲だった。この3曲は音楽家にとって、特別なソナタとして扱われる大作で、通常ソナタは3楽章あるものがほとんどだが、32番は2楽章で終わっている。ジャズのような要素も含み、その後の音楽の発展を予感させるような内容で、明らかにそれまでに確立した伽藍のような構造を手放し、自由になっている。このソナタが2楽章しかない理由は多分色々と研究がされているのだと思うが、書かなかったことで3楽章は未来に永遠に響いているように思える。


バレンボイムは、自身が考案したという平行弦のピアノで演奏したそう。今のピアノは弦を交差させているが、それをまっすぐ張ることで響きの濁りをなくすことを狙っているらしい。また自身のベートーヴェン解釈に基づいて、かなり特徴的な表現をしたと聞いた。好き嫌いはあるだろうが、彼の「今」であったのなら、良かったのではないだろうか。そうでなかったのなら、どうあったとしてもつまらなかっただろう。


ヘートーヴェンの時代にはピアノがどんどん進化した時代だ。今の楽器だって100年後には、「その頃のピアノはモダンピアノと呼ばれました」と懐かしく振り返られるかもしれない。未来に受け渡したような32番で終わるプログラムが、新たな工夫をしたピアノで試みられたことを、ベートーヴェンも笑っているだろう。


目の前のことを追いかけるのに必死な人生の前半よりも、折り返しも終わる人生の最後においての方が、挑戦を続けて行くことは難しい。人生の前半に得た栄光がそのまま、重荷になる。ポリーニは過去の自分と闘っているように思える。キーシンは昔の構造から出ようとしていない。ベロフは普通に老いた。エルバシャはだんだんとレパートリーを穏やかなものに変え、最新のショパン録音はかなりテンポを落としている。病気したのかもしれない。チッコリーニは、命を失ってもさらに続く道の上にいるようだった。


ポリーニなどは演奏を聴きに行くというよりは、もはやあれだけの巨匠が、どのようにピアニストとしての終盤を描くのかを見届けに行くという意味合いが強い。ピアニストたちも、先人を見ては、自分の来し方行く末について常に考えているだろう。噂では、3年前のポリーニのコンサートの客席にはツィメルマンがいたそうだ。


今日はなぜか世田谷のきれいな古民家で、日本の書の変遷についてのお話を聞いていた。万葉の時代に1000あった仮名が平安に300に減り、今は50になった。言葉も音楽も、ウィルスも、生きている人の中でしか生きられない。使われなくなった文字や、とっくに死んだベートーヴェンの音楽に命を与えるのは、当たり前だけど、今を生きている人なのである。

(2021.6.5)