[ピサロ観劇記]ピサロが最期に見た夢は…
ピサロ(原題:The Royal Hunt of The Sun)@パルコ劇場(渋谷)
2021年5月15日(土) ~ 2021年6月6日(日)
(作品が作品だけに、いつも以上にもったいぶった言い回しになっておりますのをご了承ください。)
(内容のネタバレは極力避けておりますがなんだかんだ匂ってしまうゆえ
未鑑賞であらすじをご存じない方は自衛してください)
約1年前、リニューアルされたPARCO劇場のオープニング・シリーズの第一弾公演として
主演 :渡辺謙 (インカ帝国を征服したスペインの将軍=ピサロ役)で
36年ぶりに再上演された『ピサロ』。
なんとその36年前、彼に征服される側のインカ王、アタウアルパ役として立っていたのはまだ俳優として無名の若手だった渡辺謙 その人であった。
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…すごくない?!
これだけでも震える。超目玉作品だってことが素人にも分かる。
今回のリバイバル公演で
その、かつての謙さんに謙さんが対峙するという
光栄ながらもはかりしれない重圧のある大役アタウアルパを演じたのが
我らが宮沢氷魚である。(どのポジションでもの言ってんだ)
すごくね????????
しかしコロナの影響により、初日延期後に上演されたものの
演者&劇場の万全を期したコロナ対策虚しく、10回でお蔵入りとなった…。
いやいやいやいやいや ありえない。
私の最初に取ったチケットは夢と散り、
追加公演として取れて狂喜乱舞した氷魚くんの誕生日チケットもまた
水の泡となってしまった。
いつか、リベンジを。
中止に追い込まれてもなお演者たちの衰えぬ気負いにすがる思いで
2020/4/24のチケットは返金せず、今でもお守りとして持ち続けてる。
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…まさか、たった一年後にリベンジ実現されるとはよーー😂
(嬉しいけど!思ったよりだいぶ早かったw)
その前に📺WOWOWでも放映されましたが、
うちでは見られないし、ナマで初体験したかったもんで
人んちで さらーーーっと流してもらった程度。
しかも別な舞台(🐟ボク穴♡)と舞台のはしごのはざまで見たもんだから、半分うつらうつら…(ごめんなさい。。。)
なのでほぼ、未体験。
そりゃ取りましたとも
リベンジ公演、初日!!!
去年と比べて、コロナの状況がよくなったわけでもないから
行けるとしてもたった一回。
楽日か、初日か、、、迷った末
なるべく目や耳に余計なものを入れずに観たい私は
(すでに否が応でもいっぱい画像入りの記事が目に入ってきちゃってたし)
やはり、初日かなと。
(いつ中止になってしまうことかドキドキして待ってるのも心臓に悪いし)
リベンジ一発目、まさに幕が上がった瞬間を、この目でしかと観たかった。
そして、私の選択は間違ってなかったことを確信しております。
↓観劇から一夜明け帰宅中のツイート
余韻に浸りたいけど
思い出すと泣いてしまいそうになる
ジレンマ
言葉が見つからない
放心状態
生身の人間が
神としてそこに存在してることの
説得力が
氷魚くんの声と身体と立ち居振る舞いにあって
あぁ、だめだ
言葉が見つからないのではなく
彼の圧倒的存在に追いつけない
以上、前書き。
(長すぎた。)
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さて、本編
(以下、これは観劇のレビューではありません。
主に雑多な述懐であり思考の吐露です。)
どんな高画質であれ、画面というフィルターを通せば音も光も平面になる。
観劇後、あらためてWOWOWの映像(一年前の公演)を観た時
もちろん一年という時を経て舞台・役者・演出自体も熟成し
また新たなピサロとして確実に生まれ変わっていたせいもあるんだけれども
直接自分の目の前で繰り広げられるステージの生の圧、3D感、
いや時代をも超越した4D感は
なにものにも代えがたいものであった、と改めて感じた。
宮沢氷魚演じる
アタウアルパ王
(※人名なのでいろんな表記があるけど今回のパンフの表記に準じます)
(ちな、一ヶ所アタウウルパと誤植されてるのを私は見逃さなかった…↑)
(ちなちな、普段は氷魚ワルパって呼んでます。てへ(*´з`))
あの輝きは
華やかな衣装をまとってるからでも
地肌が色白だからでも
スポットライトをあびているからでも
ない。
そんな物質的な事では 断じてない。
確かにそこに、
神として
いたのだ。
いや、正確には心の底から神と信じ、信じられている
一人の気高き王が。
あの神々しさを目の当たりにしては、
露出多めの御姿にも邪な気持ちが入る隙間は一瞬たりとも…
とあるシーンで
氷魚くんのピロートークを妄想して昇天するくらいしかなかった
(あったんかい)
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by the way,(突然のルー🐟語)
小学生高学年の頃
いつも遊びに行っていた友の母が熱心なクリスチャンで
一緒に教会 もしくは 土曜学校と呼ばれる子供向けの集会に通っていた時期がある
とはいえ、その友は信者というわけではなかったし
(むしろ幼少期からその生活を押し付けられていたことで、反発してたように思う)
(ちなみのその友の母の実家は寺。ばりばり仏教徒の出😇)
ただ連れ添われて行った私など それこそ曖昧な記憶しか残ってないけれど、
毎週
讃美歌を歌い(歌は好きだった)
献金をし(子供なので10~100円くらい)
聖書を読みながら❛お話❜を聞いた
🎄の礼拝では、キャンドル🕯を持ち
キリストの肉体=🍞(パン)
キリストの血=🍷(ワイン)
をみんなで一緒に一口分頂く
(さすがにワインは飲めないからぶどうジュースだったのかな)
そして幼稚な見た目の割りに老成していた私(ちびまる子的な)は
その教義や振る舞い方やもろもろをそれなりに理解はした。
しかし理解とは、脳味噌でするもんで
特に神の教えに心酔するということはなく
なるほど、と。
確かに良いものであるのだろうけど、やはり私は何かを信じ切ることが出来ないタイプの人間であるのだな、と確信しただけであった。
それは少し寂しくもあり、諦めでもあり、安心でもあった。
(人間として経験が薄いからこその、いっぱしに悟ったつもりになってる当時の不遜さを見逃して頂きたい)
なにせ日本生まれの日本育ち、無宗教の、
いや ある意味無節操の八百万の神の元で生まれ育った人間が、
ある程度物心も付いてから
これだけがただひたすら“絶対的な存在”であるとして信じなさい と言われても土台無理な話である。
だからといって敬虔な信仰心を揶揄するわけでも否定したいわけでもない。
“信じる者は救われる”という言葉は一種の真理だと思っていて
結局は心の持ちようの問題だから
何であれ、寄る辺(よるべ)を持つものは強い。
時にそれが大きな危険を伴うとしても…
日本人でよかったなと思うのは、その信心の対象が比較的自由であるがゆえ
概して無用で非道な戦いを避けられてきたところだ。
(他国と比べてというだけで、決して皆無なわけでは無い)
さて。そろそろ話を舞台に戻そう。
こういう経験と思考を持ち合わせていたので
どちら側の言い分も理解できたし
そうでない立場への偏見や誤解や齟齬、
そもそもが相容れない、平行線をたどり交わりようのない関係であることなどなど
(第三者だからこそ岡目八目でよく見えるのだろうことも含め)痛いくらいに刺さった。
悲劇は、ただ一方の傲慢さにあるのではない。
時代と、社会と、すべての人間の心が作り出すものだ。
それは、文明が発達し、世界の均一化が進み、情報が簡単に手に入りやすくなった今であっても。
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史実としてあるのは
ピサロ率いる少数の軍が
何万倍にも及ぶ規模のインカ帝国を侵略したということ。
ピサロは大勝したわけだ。
しかし心はどうだろう。
『ピサロ』は戯曲として大いに脚色されたものであるから
現実と重ね合わせるのは間違っているかもしれない。
しかし舞台の上では確かに
ピサロは
神の再訪を待っていた。
キリストではなく、
太陽の子、アタウアルパを。
私も待っていた。
蘇るはずもない、人間の形で生まれた神の子を。
だって私たちが出会ったアタウアルパは紛れもなく、
この世の者とは思われぬ空気をまとった
広大な大地を統べる王であり
全ての真理を見通し 矛盾を見透かした顔で そこにたたずみ
体内から光を放っていたのだから。
後光が射すどころか
全身から360度の光を周りにふりそそいでいた。
まさに、太陽の子 そのものだった。
嘘だと思うだろ?
ほんとなんだぜ。
だって、この目で 見たんだもん。
今思い返すだけでも、えもいわれぬ感動が不意に蘇り涙腺を襲う。
あぁ、洗礼を受ける感覚というのはこのようなものなのではないか…
何かや誰かを、引いては自分をも“信じきる”ということを早々に放棄した私でさえ
認めざるを得なかった。
“このお方こそ神であらせられる”と信じて疑わない感覚を。
大人になった私は今も相変わらず無宗教であると同時に
すべてのものに神の命が宿るという八百万の神(アニミズム)の考え方も好きだ。
そのふたつは矛盾しているかもしれないが
神が実在する、実在しないや
信じる、信じないを超えたところにそれはある。
それは誰にも否定できないことだし
自分で変えることもできない。
さて、再び史実によると、その後ピサロは
アタウアルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告される。
(しかも、死刑の決行を待たずして、暗殺されている。)
なんという喜劇だろう。笑っちゃうな。
なんという悲劇だろう。笑えないよ。
そこでふと思う
ピサロが最期に見た夢は
アタウアルパではなかったか?
許しを請うたか、
希(こいねが)ったか、
それは分からないけれど。
祖国の英雄としていいように祭り上げられ勇猛果敢に指揮を執り
しかしその祖国により哀れな最期を遂げた孤独な彼が
最期の最後に
家族でも仲間でも、ましてや祖国でもなく
唯一の懺悔と救いをアタウワルパに捧げ求めたのではないか。
そう、彼の降臨を信じたあの日のように。
私にはそう思えてならないのである。
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あとがき。
・・・おっかしいな~。
もっと、氷魚くんのことをどっぷり書くつもりだったんですが。
ツイッターのレスで思いの丈を書き尽くしたか。
いや、書き尽くせるはずもないか。
公開されてる情報以外は最大限にネタバレ避けると(結構お漏らししちゃったけど)こんな感じになっちゃうよね。
細やかな演出含め、舞台装置なども、おおおっと思ったので
全公演終わった後に余力があれば書くかな。
書かないかな。
とにかく、すごすぎるのは見ればわかる。(急に 雑)
そして私は確信しました。
これ、堂本光一のSHOCKや森光子の放浪記みたいに
渡辺謙の生涯の舞台になるに違いない、と。
なぜなら36年間 眠っていた舞台は
謙さんがピサロをやるために待っていた、だけじゃない。
神の子、アタウアルパの役を
宮沢氷魚の到来を
待っていたんだ。
彼より演技の巧い役者はいくらでもいる。
彼より華のある役者も…まぁいるだろう。
しかしあのカリスマ性は(使いつくされ手垢にまみれた安っぽい意味合いではなく)どうだ。
あの圧倒的な神の子としてそこに存在してる説得力はどうだ。
神秘的なあの眼はあの肌はあの肉体は
そして何より、舞台上のありとあらゆるベテランや若手をもってしても
誰にも似ていない響きを持つあの声は。
口からではなく、身体から振動として音を発し
聴く者もまた、耳ではなく身体を通してその振動に包み込まれるような
あの不思議な響き…
大きい掌の上で孫悟空が聞いたお釈迦様の声は、
あのようなものなのではなかったか。
確かに人間であるのに、人間を超越した存在。
アタウアルパを演じるにふさわしい役者を、よくぞ見つけてくださった。
一ファンという枠を飛び越えて、この邂逅に感謝します。
そしてきっとこの先もまた、何度も何度も舞台の上で蘇るのだろう。
そう、やはり私は見たのだ。
まごうことなき神の子が、永遠の命を持ちあそこに立っているのを。
INTI!INTI!INTI!
サパ・インカ!!!👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏